「日暮花魁、入りんす」
私は返事を待てずに襖を開ける。
暮れ六ツ前の忙しい時間だと言うのに、日暮花魁は既に身支度を終えて物憂げに格子戸から外を眺めていた。
(やっぱり休まないのか……)
キュッと締め付けられる胸を押さえて部屋に入る。
黄昏時に染まった白鷺の打掛が、暗がりに白く浮かび上がって綺麗だった。
「あれ、小菊さん所の小鈴どんでありんしたか」
勝手をしたのに怒りもせず、日暮花魁は他の部屋の妹女郎が入って来たからと上っ面だけの笑みを浮かべる。
「秋鈴でありんす。もう禿ではありんせん。萩野どんも小萩と呼ばれるので文句を言っておりんした」
日暮花魁の前に座り、顔色を見る。
「わっちにはまだ、可愛い童に見えんすよ。尊く浄い、穢れない者でありんす。して、何用でありんす」
恋を知らない苦界の女を羨んでいるみたいに、日暮花魁は視線を落とした。
「朋輩の萩野どんが遣手婆に呼ばれんして、かわりにお使いの吸い付け煙草を預かりんした」
そう言って自分で買ってきた煙草の葉を渡すと、日暮花魁は儚げに笑みを浮かべて礼を言う。
「ありがとうござりんした、なれど……わっちの煙管はもうありんせん。これは小菊花魁に差し上げささんす故、お持ちなんし」
そっと白い指で私の手に煙草を握らせる。その指先は力もなく血も通わない冷たい手だった。
いつもなら指先まで芯が通って綺麗な所作で動くのに、今夜は少し震えているようにさえ感じる。
「日暮花魁の煙管は梶原様がお借りんしたと……」
ある小大名のお付きで来ていた貧乏浪人は、昨日限りでお江戸での勤務を終えて国元に帰ると言っていた。
萩野どんの話だと貸したと言っていたが、あの貧乏浪人では返しに来る旅費すらも難しいだろう。身請けなど到底無理だ。
「あの雁首で幾人もの客を引っ掛けんしたが、好いたお人は引き留められもしぃんせん」
悲しげな目が、会えない人を想ってじわりと潤んだ。それを誤魔化そうと窓の外に沸き立つ鬱陶しいまでの喧噪を眺める日暮花魁を見て、私は堪らなくなる。
「わ、わっちの煙管を差し上げささんす故……あんな無粋な侍などお忘れなんし。日暮花魁には煙管がありんせんと、どうも締まりが悪ぅござんす」
先刻煙草と一緒に買ってきた煙管を取り出すと、私は日暮花魁に差し出した。
「秋鈴どん……」
日暮花魁の愛用していた美しい紅色の煙管は姐女郎の形見だと聞いている。
こんな安物とは比べることも出来ないが、これが自分の精一杯だった。
「かようにも──」
日暮花魁は新品の煙管を見つめて申し訳なさそうに眉を下げ、困ったように首を振った。
「──かような事をささんすと、小菊花魁に悪うござんす」
差し出した煙管を指でそっと押し返された。
「小菊姐さんは大事な姐女郎でありんすが、わっちにとっては日暮花魁も大事でありんす。梶原様が居らずとも、そのお心の灯火に水をかけるのはお止めなんし。この苦界を花魁が仄かにも照らしてくれなけりゃ、わっちらは望みも何も潰えてしまいんす」
好きな人が出来たらこの苦界が地獄になるなんて、そんなの余りにもあんまりだ。それなら梶原様は日暮花魁を責め立てる獄卒も同じ。そんな奴こそ地獄に落ちりゃあいい。
「なれど……」
「わっちは梶原様が憎らしいっ。煙管と一緒に日暮花魁の灯まで盗みおって……! 妹女郎でもないわっちでは、何の役にも立ちんせん……!」
「秋鈴どん……」
私はぐっと力強く煙管を握らせ、ワッと泣き出した。すると日暮花魁が煙管を握り返し、おろおろと顔を覗きこむ。
「泣くのはお止しなんし。秋鈴どんの気持ち、嬉しゅうござんす」
そう言って、日暮花魁は煙草と煙管を受け取ってくれた。
9/2/2022, 5:16:50 PM