今日は僕の人生にとっては新しい経験なはずだ。直線上の時間軸の先を細くつき足している途中であるべきだ。
しかし、どこか何か見えないものの跡を追っているような感覚が拭えない。つまり、今考えていることも、行ったことも全て1度昔にやった事があるような気がするんだ。まるで、未来の記憶を頼りに、その道筋をせっせと進んでいるような閉塞感がある。
これは一体、どの時間軸の誰の記憶なんだろうか。そして、この記憶は一体僕をどこに連れて行ってしまうのか。
僕の心は他の人とは構造が違う。普通はAという器官があるところに、僕の心はBの器官が入り込んでしまっている。逆に、僕にとってのAは普通の人のBの所に入っている。つまり、構成されてるパーツは同じだが、その組み立てが違うのだ。これは、一見何も変わらず正常に動いているかのように見えるが、長く動いていると徐々にその差異が大きくなり、判明してくる。僕の場合、それは高校1年生ぐらいの時期だった。厄介なのが、外面的には何も変わらず見えるというところだ。これによって、上手く生き抜くために自意識を強くするか、弱くするかの判断が遅くなってしまう。そしてこの遅れは、自分を特定するための、過去の自分という材料を雑多にさせ、一貫した基準というものを作りにくくさせる。結局、僕が自分の心の構造に気づいたのが高校生で、そこから自意識の調整と、自己の特定を完了させたのは大学3年生頃だった。それまでの時期は本当に大変だったが、大学3年生からは目の水晶体を入れ替えたかのように、世界が違って見えた。ある意味で、初めて世界に降り立ったのがこの時期だったのかもしれない。
ただ、こういう人は確かに少数ではあるものの、決して珍しい訳では無い。1クラスに2.3人はいるぐらいだと思う。だから、そういう子達には、待ってみるという選択を持って欲しいと思っている。人生というのは、自分が今見ている方向や事象、因果とは何の関係もなく進んでいく。つまり、今日は日付が奇数だから学校に行きたくないと思っても、次の日には偶数だから学校に行きたくなるとは限らないんだ。メジロがベランダに止まることで、高校を辞めることもあるし、消しゴムを3つ無くしたから教師を目指すということもある。そのぐらい、不確かなのが人生なのだ。だから、心の構造に困っても、とりあえずは待ってみるというのが良いと思ってる。既に遅れているからこそ、時間は僕たちを見守ってくれている。
高校生の頃、僕は1日の半分を大学受験の合格を妄想することに使っていた。
ある夏の日の自習室の帰り、自転車に乗りながらいつものごとく、難関大学へ合格し周りに賞賛される妄想をしていた。夜空を見上げながら、お願いだから成功するようにと祈っていた。その時、流れ星が2.3個夜空を遮っていった。目のゴミとか、飛行物体との見間違えとかそういう疑いは無かった。それはあまりにも、クッキリとした光の尾を引いていたからだ。
家に帰ると、直ぐに流星群の日付を確認した。ちょうどペルセウス座流星群が極大になる時間帯だったのだ。
僕は確かに、流れ星の最中に願い事を唱えていた。それは、天上の力に頼ると言うよりは、もっと純粋な形での願いだった。これで合格しなかったら、今後の人生で超常的なものを信じることは無いだろうと思った。
そして月日は経ち、僕はくだらない結末を辿っていった。どんな象徴的な伏線だって、現実世界ではなんの意味もなさなかった。結局のところ、それらは我々の捉え方であり、感じ方なのだ。
君の背中は品のいい滑り台のように、白くツルツルしていて、滑らかな曲線を描いていた。僕はそれを眺めるのが好きだった。君はいつも不思議がっていたけど、その困惑した顔がよりその白い背中を引き立たせていた。
彼女も美しい女性だった。僕が今まで付き合ってきた女性は誰もが、自分を代表とさせる権威的な部位を持っていた。ある人は手首だったし、ある人は首筋だった。そして、彼女は背中だった。そういった類まれなる美しさというのは、感心や感動を通り越して、畏怖の念まで抱くこともある。それは、人が作り出す、ある意味で人工的で、同時に自然的な美しさなのである。
僕にはお気に入りの崖があった。家から自転車で30分ほどする所に密林があり、そこの小径を10分ほど歩いていくと、海を一望できる開けた崖にでれた。それは海という手をつけられない程巨大な力を町から守っているみたいに、海と町とを力強く隔てていた。
僕は近くにある小さな展望台から、自前の双眼鏡で海の向こう側を見るのが好きだった。レンズ越しの世界では海と空の2つの単一的な概念のみで成り立っていて、そこは、僕の居る複雑で無駄な世界とは全く違うものだった。