昔から、なかなか寝付くことが出来ない質でした。
毎日のように不眠に悩まされ、薬まで飲んでようやく眠ることが出来ても、すぐに起きてしまう。
そのため、もう何年も日が昇ってから目覚めることがありませんでした。
目を開いてすぐに映るのは、薄暗い部屋。
まだ月が見える時間帯から、私の一日は始まるのです。
睡眠不足は常に纏わり付きましたが、私は、どこか特別感を抱いていました。
まだ誰も活動していない夜明け前。
まるで世界に自分一人しか存在していない。
そんな静寂は、存外悪くない物でした。
『夜明け前』
学生間の恋愛で、将来の話をするというのは、随分と早計なことだと思います。
子供の恋など、長続きはしない物。
それなのに、数年数十年も先の計画を立てるのは、砂上の楼閣と同義。
積み上げたって意味は無いのに、何故、人は未来を語るのでしょうか。
もっとも私の恋人は、その早計な人間でしたが。
キラキラと子供のように目を輝かせ、頬を朱に染め、幸福そうに紡がれる言葉。
私はいつも、苦笑しながら頷きます。当たり障りの無い返答をして、然も自分もあなたとの将来を見据えているのだ、という風に取り繕うのです。
あなたは何故、そんなにも希望に満ちているのでしょうか。
それが本気の恋なのでしょうか。
あなたの机の隅を指でなぞりながら、そんなことを考えるのです。
『本気の恋』
カレンダー上の丸の印が、私の心を浮わつかせました。
赤いペンで書いたその丸は、私の幸福の印そのもので、その日が訪れることを想像すると、クリスマスやお正月を前にした幼子のような気持ちになるのです。
何度も何度も、一日ずつ線を引いて埋めて行く。
着実と近付く日を前に、堪らない気持ちになるのです。
『カレンダー』
隣の席に座っていた女子生徒のことを、私はよく見ていました。
意図して見ている訳でも、その生徒に何か変な特長があった訳でもないのですが、気付いたら、その生徒が視界に入っているのが、私の日常でした。
艶のある黒髪をおさげにし、眼鏡をかけた彼女は地味と言えば地味でしたが、飾り気のないその姿には、野暮ったさより雪の中に咲く一輪の花のような、そんな美しさがありました。
文学少女というあだ名が付いていた彼女は、誰とも言葉を交わすこともなく、笑顔を見せることもなく、休み時間はいつも本を読んでいました。
いつも人に興味が無さそうに、冷めた目で教室を俯瞰しているような、そんな印象を受けました。
彼女を冷淡でお高く止まっていると表現する者も居ましたが、私は、彼女のことを誰にも汚されることのない高嶺の花だと思いました。
彼女とは高校の三年間同じ教室で過ごしましたが、席が隣になったことも、話したことも、三年生の夏頃になるまで、一度もありませんでした。
彼女が積極的に人と関わろうとしなかっただけでなく、私が、眺めるだけで彼女に手を伸ばすことを躊躇っていたのもあります。
転機が訪れたのは、夏休みに入った頃でした。
たまたま近所の本屋を訪れて、興味を持った本を取ろうと手を伸ばした時、偶然、彼女の手に触れてしまったのです。
少女漫画のテンプレートをそのまま流用したような展開に、しかし私はしっかりと動揺してしまって。
別に、何かおかしなことをした訳ではないのに、彼女の手に触れてしまったことが何故か重罪のように感じて、私は慌てて言い訳をつらつらと吐きました。
明らかに挙動不審になった私を前に。
彼女はくすくすと笑いました。
今まで冬のような雰囲気を纏っていた彼女は、笑うと存外幼くて。
そこには春のような温かさがありました。それに私は、また見惚れてしまったのです。
その日から、彼女と私の交流が始まりました。
時折その本屋で会えばお互いにオススメの本を紹介し合い、学校で顔を合わせれば挨拶をするような。
連絡先を交換なんてことはなかったし、友達なんて名前の付いた関係でもありませんでしたが、それでも、私は楽しかった。
触れることはなくても、近くに寄ることは出来た。
そのことに、私は満足感を抱いていたのです。
卒業するまで、その充実した日々は続きました。
次に、会ったのは。
「新郎新婦の入場です」
マイクを通して聞こえた女性の声で、私はハッと意識を現実に戻しました。
辺りに響く拍手の音を、まだぼんやりとした頭のまま聞いて、流されるままに自らも手を叩きました。
私の拍手の音は随分と弱々しくて、きっと、周りの人間に全く聞かれていなかったでしょう。
そう、彼女から、手紙が届いたのは、二ヶ月程前のことです。
それは、結婚式の招待状でした。
誰から住所を聞いたのか。
卒業後、全く関わることのなかった彼女は、私に手紙を送ってくれたようでした。
式場には、ちらほらと学生時代に見たことのある顔が揃っていて、彼女の交遊関係は、私が思っていたより広いことを、初めて知りました。
扉が開いて。
見慣れたおさげの少女は、どこにも居ませんでした。
眼鏡を外した顔も、化粧が施されていて、まるで別人のようでした。
しかし、かつて見た時と変わらなかったのは。
あの春のような笑顔を目にして、私は。
純白のドレスに身を包んだ初恋の彼女は、とても、幸せそうでした。
『喪失感』
僕は天涯孤独な人間でした。
親の顔も知らず、物心付いた時から生を疎まれ、いくら傷を付けられようが文句が言えないお荷物としての人生を、歩んでいました。
友も居た覚えはありませんが、それよりも、僕は家族という物に強い憧れを抱いていました。
おかえり、と声をかけてくれる人間を、切望していたのです。
温かい手料理、心地好い家庭、そう言った物に憧れていたのです。
必死に学を身に付けました。いっぱしの人間になる為に。
必死に働きました。夢を掴む為に。
家族なんて存在を得るために、そこまで努力する必要が無いだろうと笑う人間は、きっと大層恵まれた人生だったのでしょう。
血の滲むような努力の末。
僕に妻が出来ました。
素朴な人柄で、誰に対しても公平。きっと、この人となら幸せを築ける。
妻と出会ってからは、冷たかった人生に、温もりが生まれました。
僕はようやく幸せを手にしました。僕にとって妻は、世界に一つだけの宝物なのです。
『世界に一つだけ』