記憶のためには記録が必要
暗記するなら単語帳が要るし
教えてもらったことを定着させるにはメモが要る
なのだけれど
記録があるから記憶はいらない、という訳ではない
「学校の暗記科目は、ググればいいので不要」論までいくと、ちょっと納得いってない
憶えてこなかったことを、適切に調べられるか
調べられたとして、適切に利用なり応用なりできるか
というのはもちろんで、
教養的な観点で、ひとと話せるか、という点でも記憶は重要と思う
場の雰囲気やテンポを踏まえたコミュニケーションでは、それに間に合う情報の引き出しが必要で
引き出しの速度では記録より記憶に軍配があがるからだ
自己の体験が教養に直結するのも、それ故だろう
もう二度と取り戻せないのは
年齢と過去の経験、ぐらい?
まえに、時間は循環するという話をしたけれど
この2つは一直線に通り過ぎていってしまう
過去は何色だったろうか
華やかな色をしていただろうか
振り返ったら灰色だっただろうか
できる限りこの直線を
ここから前だけでも
自分のレッドカーペットにしていきたいものだ
以下大部分がぼくの考えというより他人の受売りなのだけれど
心が曇っているときに本を読まない方がいい、という考え方が(も)ある
ここでの本は、特に自己啓発を中心とした、(顕在的か潜在的かに関わらず)解決策を提示しているものを指している
本の中には答えもないし救いもない
落ちているときの打開策にはなり得ない
そういうときの本は、分かった気になったり
納得したような気分になっている恐れがとてもある
あるいは、自分の心を理解してくれているような気がしてしまう
本は、活字になっていることでどうしても三人称(俯瞰的)視点で書かれていると思ってしまうこともあるが
どこまでも「作者の」一人称(主観)であることには注意しないといけない
その本が、「自分にとっての」一人称や二人称にも当てはまるか、使いこなせるかが一番重要なのであって
本を読んだあとにどこまで考えられるか、行動できるかが、この場合の読書の本質に感じる
ありがとう さよなら 愛しい恋人よ…
つんく♂さんを思い出した
声を失うことに対して、はかりしれない葛藤の上の決断があったんだろうなと思う
ひとと決断は切り離せないものだけれど
その中でも一際大きい決断は、いつやって来るのだろう
その時のために芯を持って生きて
こたえを出せるようになりたい
うちにはカエルがいます
名前は確か、ピクルスといいます
彼(彼女?)は、妻をうちに迎えたときに、一緒にやってきました
少し調べてみたら、ぼくと同い年のようです
そうやって見るとなんだか愛着が湧いてくるような気がしますが、それはそれとして。
昨年ぼくらに娘が産まれた頃、何か継続して、娘の成長を形に残すことをしよう、となりました
産まれた日から1ヶ月ごとに、ピクルスと娘を横並びにして、写真を撮りました
はじめは身長がピクルスの半分ぐらいだった娘。
ぐんぐんと大きくなって半年ほどで同じぐらいの背になりました
今では平面の世界を抜け出し、すぐにでも歩いてやらんとばかりに、1人で立つ練習をしています
妻は幼い頃からピクルスが好きだったようです
おそらく思い出のいくつかに、ピクルスが紛れ込んでいることでしょう
その思い出を引き継いで、今は娘の隣にいます
これからは娘が、ピクルスと同じ景色を見ていくのでしょうか
もしかしたら他に幼少期のパートナーが出来るかもしれません
何故だか分からないけれど、ずっと好きだったものがある、というのはぼくにも覚えがあります
ただ、そんな時があったなと、
記憶の取り出せる場所に残してあることが
人生を豊かにするひとつのピースなのかもしれないなと思います