※一部センシティブな話題を含みます
※人により不快感を感じる可能性があります
運動会で、手を繋いでゴールするようになった、と話す人がいる
これにはずっと違和感があった
自分たちの頃にそんな文化はなかったし
年の離れた兄弟の頃にももちろんなかった
これ、どこを向いて話してるんだろう?
ちょっと調べてみた限りでは
そもそも実際に確認せずに使われていた論調だったり
確認された事例も限定的だったという
つまり、そもそも話のスタート地点を極めて例外的なものに置き
あたかも一般的なものとして進めている
この前提は、ある種幻想である
その先にいくら説得力があっても
大前提が不確かなのだから
ナンセンスなものに成り果ててしまう
ぼくは、誰かをカテゴリーに当て嵌めて話すことが苦手だ
いわゆる、健常者とそうでない人がいるとして
一定の特性を持つ人とそうでない人がいるとして
そこをABの2つに区別して捉えることはあまりしない
Aのように見えるけれど、限りなくBに近い人がいる
Bのように見えるけれど、限りなくAに近い人がいる
すべてがグラデーションの世界に感じている
健常者の思考が必ずしも健常とは限らない
自分以外が上手くやっているように見えるとき
自分も上手くやっているように見られているかもしれない
とすれば、目の前の人はなんらカテゴライズせず
ただただその人として向き合うべきではないか
自分も、なんらカテゴライズせず
自分として向き合うべきではないか
果たしてその人にはそのカテゴリーが適しているのかを考え続けて
ありもしない常識や異常を非難するんじゃなくて
ただ目の前の人が誰なのかを追い求めたい
滑り台に乗ろうとした
転落防止の柵はなかった
心を決めて台に乗った
終わりは見えなかった
滑り始めてすぐ
軋む音が聞こえた
冷たい手に引かれて横に落ちた
底は見えなかった
暫くの後幾つかの光に照らされた
蜻蛉がこちらを見ていた
ゆっくりと光が見えなくなって
それでおしまい
実家の卵焼きと炒め物が好きだった
正確には懐かしいだけかもしれない
たまにその懐かしさに会いたくなるのだけれど
いま、実家でご飯を食べる時にはまず出てこない
卵焼きは朝ごはんとかお弁当に入るものだったし
あの頃の炒め物をするには環境が変わりすぎている
両親は(ぼくらも)十数歳、歳をとっているし
ぼくらにもこどもたちがいる
遡って大学生の頃、初めて自炊をした時に
これら実家の味を再現してやろうと思った
卵焼きは案外、近いものができた
白だしを使っていたらしい
どちらかといえばだし巻きだった
炒め物については、これまで再現できなかった
醤油ベースの、ご飯が進む味
「なんとなくこれぐらい」のあの感覚が、つかみきれない
多分もう出会えないんだろうけれど
ぼくにはぼくの「炒め物」が
これから大事になってくるんだろうなあ
夢は、そこまでの道のりが見えていないもの
目標は、そこまでの道のりが見えているもの(もしくは見いだせる可能性があるもの)
とすると、夢なんてものはまあ叶わないよなと思うし
夢なんてことばで収めるから叶わないのだとも思う
小学校の頃、将来の夢を卒業文集に書かなければいけなかった
何になりたいのかが明確になかったぼくは、当時やっていたスポーツにからめて当たり障りのない、叶わぬ夢を書いたものだった
今思えば、「夢」としては間違いなかったのかもしれない
幼い頃はそもそも十分に視野が広い訳でもないし、
叶わぬ夢に思いを馳せるのでよいと思う
が、今となっては掲げるべきは目標である
多少叶う見込みが低くても
そのために何をするべきかを明らかにしていき
淡々とこなしていく力があるなら
目標を達成できる確率はゼロにはならないと信じて
記憶は他の情報と結びついて定着している
あるものは音楽と共に
あるものは景色と共に
またあるものは、香りと共に
構内に落ちて潰されていた銀杏の香りが
当時の喧騒と、その中を駆け抜けた努力の記憶に結びついている
もともと何かをやりきることは苦ではなかったから
決して特別なことではないし
逆転の物語でもないのだけれど
きちんと走りきったからこそ
今、やりたい事が輪郭を帯びてきたのだと思う
今度はすべてを
まわりの人や次の世代に返していく番だ