──同じ景色しかないだろうと思っていたのに、存外、世界というのはしぶとく生きているらしい。
ある日、男は突然、見知らぬ老若男女とひとところに押し込められ、よくわからない何者かにこの世界は一度滅びたと告げられた。
外に出ればどこまでも陸地の見えない海と一本の巨木、そして今立っている一つだけ残された建造物を見て、これがたちの悪い冗談やTVショーの類ではない、と男が現状を受け止めたのは、自らが死した記憶があるからだ。記憶にある自らの死期の姿より若く再現された肉体、負っていたはずの傷の跡やら、欠損していた部位まで復元されていれば、男はそれを信じるしかなかった。男の生きていた時代では、こういったものはフィクション以外の何物でもなかったからだ。
(男がもう一世紀あとに産まれていれば、仮想現実かはたまた拡張現実か。HMDはどこだ、同意なき治験への参加は違法だぞ、などとわめいていた可能性もあるが、生憎そういったものが現実として存在する前の世界しか彼は知らなかったのである。)
そして、男はこの事態に巻き込んできたもの──それはロバと名乗った──に従い、課せられた仕事に追われていた。過去のデータや現状、そして事態の把握にひと月を要した。男が事態の解決を急かさなくていいのか、とロバに尋ねたところ、ロバの返答は簡潔だった。
「猶予の概念が必要な事象は、現在の地表には存在していません」
それを聞いて、男はこの世界が本当に一度滅び、人が死に絶えて、その歴史が無となったのだと腑に落ちた。真に継続して残っているものは、おそらくこの無機質な回答をするロバだけなのだと。
そして、腑に落ちたあとにあるのは味気のない日々である。課せられた仕事をこなしながら、再度の死を先延ばしにする。男は一度死んだ身であったが、あの鼓動が弱まり、心臓が冷えていく感覚を再び味わうのは避けたかったからだ。
適度に役割を果たし、軋轢が生まれない程度に軽薄な人間関係を保つ。死ぬ間際に男が世界を歩んでいた方法を再現して時間を過ごしていた。
そして外に鳥を見に行くと告げた一人の少女の付き添いとして建物の外に出たのが、今である。時は黄昏に迫り、暮れ行く空の色が徐々に薄紫に染まる頃合いだった。
太陽は空気の曇りによってその輪郭をありありと主張し、鮮やかに、血のような色で水平線の先へと落ちていく。
──それは、男が再びの目覚めを経てから、初めて目にする色の夕暮れであった。
少女は空の色を気にすることなく鳥がいないかと目を凝らし、男が付き添っていることを早々に忘れていたし、男も空と夕日の色に目を奪われ、視界の端の少女から気を逸していた。
そして、口の端を緩めるように、あるいは歪めるようにして笑う。
──なんだ。まだ、生きてんじゃねぇか。
案外、しぶといもんだよな。おまえも、そして俺達もよ。
時が薄暮に移るまで、男はそうしてただ突っ立っていた。
【沈む夕日】 名乗らぬ男
陽が、差し込んでいた。
ベッドの上で目を覚ました狼の獣人は、少し赤みのある金の目を瞬かせる。
ゆるやかに獣人が上体を起こすと、薄がけの布団がはらりと落ちた。麻の寝間着には、布団の中にこもっていた熱がまだ残っていた。
「朝…。私の、部屋」
女にしては少し低めの声が、ぼんやりと部屋の中に響く。まだ夢の中から覚めきらない目元をこすったあと、獣人は癖の強い青灰色のロングヘアをそっと撫で付けた。
そして、ゆっくりと窓の外を見る。彼女の視界に映るのは、いつも部屋から見ている光景だった。
街道から外れ、なだらかな山の麓で少しだけ森の中に分け行った先にある、狼の獣人ばかりが住まう少し変わった村。それが、今、彼女──名をロンドという──が住んでいる村だった。
「ほんとに終わっちゃったんだ。もう一人の私の世界との、入れ替わり」
呟いた声は、ひどく小さかった。
──彼女の住む村からさらに山の方へと分け行った先には、小さな泉がある。この泉は不思議な性質をしており、満月の夜に月から注がれる光に反応して魔力を貯めるのだという。数年がかりで泉に溜まった魔力はいつしか飽和し、淡い光と共に周囲に無差別に撒かれる事となる。その時、泉を覗き込み、水面に姿を映すものがいると、泉は可能性の世界の人物とその者を数日のあいだ交換する、という現象が起こる。
この不思議な現象は、村の民だけが知るものとされ、世には伏せられている。可能性の世界を覗く、などという不可思議が知れれば要らぬ禍を招くからだ。
そして、かつての村人たちはこの泉を覗く事を風習のひとつとし、決まりを設けた。
当日に泉を覗く権利を有するものは一人だけ。それは村の住人の中からくじで選ばれ、くじへ参加することができる者は未婚の者のみとする。選ばれた者が泉へ向かう時は、腕利きのもの数人と村長が同行する。同行者は泉を覗くことを許されず、これを破った場合はその者の孫の代までくじへ参加する権利を喪う、といったものだ。
そして、今回のくじで選ばれたのはロンドであった。
どんな世界を見るのかと周囲に聞かれた彼女は、自らが父と同じ冒険者として生きている世界を見てみたい、と思った。父のように戦う自分自身が生きる世界はどんなものだろう。胸を高鳴らせながら、淡い光を放つ水面をのぞき込んだロンドが見たものは、想像することすらしなかったものだった。
たどり着いた世界には、ロンドが知るものは何も残っていなかった。泉の周りにはエルフが一人いるだけで、村のものは誰もいない。困惑しながら村へ続く道だったものを辿って行き着いた先は、集落があった事が窺えるだけの開けた場所だった。あとをついてきたエルフの青年に話を聞くと、ここは彼が知るロンドの故郷だった場所だという。墓参りに訪れたのだ、と。エルフの示した先を見ると、不格好で簡素な木造りの十字架の群れがあり──ロンドはそこで一度気を失った。
入れ替わりのうちの一日をそうして無駄にしたロンドは、気絶した自身を介抱してくれたエルフと共に二日を過ごした。昼は周囲を散策し、夜は焚き火のもとで野営をする。ロンドはこちらの彼女が知らなかった風習の事や、自らの現在の状況、そして彼女が生きている村のことについて話をした。エルフの青年は、冒険者として生きるロンドのこと、二人が拠点にしている街のこと、二人の関係についてなどを、ぽつりぽつりと語ってくれた。
エルフの青年の話はロンドが父から聞いた話よりもりずっと過酷で、苦しくて、血なまぐさくて、でも輝いていた。
ひとりで生きる、と背筋を伸ばして、神経を尖らせて、父の持ち物だった、とても大きくて重たい、柄まで金属でできたハルバードを手に戦うこの世界の自分に会ってみたいな、と思ったのだ。
そしてそれは、入れ替わりの終わる間際に叶うこととなった。
そこはぼんやりと、すべてが淡い月光に包まれた場所だった。ロンドはあの泉の上に立っており、もう一人の人物と向かい合っていた。
同じ色の目で、長さの違う同じ色の髪で、全く違う服装で、重たいハルバードを片手で持っているのは、冒険者として生きるロンドだった。
「あなたが、冒険者の私?」
「…ああ」
村娘がそろりそろりと冒険者へ歩み寄っていく。近付くにつれて、冒険者の細かい部分がよく見えるようになる。手にしたハルバードは地下の倉庫で見たものよりも細かい傷が増えて、けれど刃の部分はよく手入れされて鋭く光っている。握る手は無骨で、肉刺や傷跡が見て取れる。短い髪の毛は手入れが行き届いているとは言い難く、顔にだって傷跡があった。そして、目元は、ほんのりと赤くなっている。
「父さまや、母さまに、会った?」
「会った」
短く答える冒険者の声は少しぶっきらぼうで、村娘のものよりも低い。
「嬉しかった?それとも、…つらかった?」
「………両方、だな。どうして自分の帰る場所にこの光景がないんだろう、って、思った」
でも、と言葉を続けながら、冒険者が少しだけ目を細めた。
「あなたの世界に、あの光景がなくて良かったとも、思った」
その言葉に、村娘は冒険者の何も持っていない左手をそっと両手で包んで瞳を覗き込む。同じ色の、同じように涙で潤んだ瞳を。
「ほんとに、入れ替われたらよかったのに。そしたら、そしたらあなたはずっと皆と」
「駄目だ」
冒険者が、柔らかな声音で言う。狼の耳を少し伏せて、困ったように笑いながら。
「あれは、あなただけの世界で、あなただけの家族だ。……自分の、父さんや母さんじゃないんだ」
「でも、あんな…あんな光景…」
「いいんだ」
はっきりと冒険者が言う。泣きだしてしまった村娘の目から、はらはらと涙が落ちていた。それは泉の水面に届くことなく、途中で光の粒になって消えていく。
「皆とまた別れるのは、正直に言うと辛かった。でも、自分にも大事なものが出来たんだ。彼らのとこにこのまま帰る。…それでいいんだ」
泉に近い足元から、光によって身体が解けるように消え始めた。これで、本当に終わりなのだと誰に告げられるでもなく二人ともが理解した。
あっという間にやってきた別れに、二人が選んだ言葉は感謝の言葉だった。
ノックの音に、ロンドが顔を上げる。入るわね、と母の声がしてドアが開いた。自身と同じように癖のある長い髪が見えて、ロンドは母の元へと駆け出して抱き着く。オーブンで焼いていたのであろうパンの匂いが染みたエプロンに顔を埋めると、彼女の目からは涙が溢れ出した。
やっぱりあなたも泣き虫ねぇ、と優しい声が言うのを聞きながら、涙で濡れた声が小さくただいまを告げた。
【それでいい】 “あの日”が訪れなかったロンド
この広い世界において、単体での強さに比肩するもののない生物が、竜である。
人が容易に立ち入れぬ深い樹海を抜け、今まで誰も橋をかけることの出来ていない深く長い断崖の向こう、世の誰もが霊峰と呼ぶひときわ高い山のどこかに、竜とそのつがいの集落があると言われている。
(眉唾ものだ、と思っている者もいるが、三つのキャラバンと四人の優秀な護衛を失い、自らも片足を失いながらも孵る前の竜の卵をその集落から盗み出した富豪がおり、持ち帰って三日の後、竜の怒りによって富豪の住む街は半壊の憂き目に遭ったという歴史からその集落の存在を信ずる者は多いという)
その、存在が御伽噺のような竜の集落の中、小さな小屋の中で、人に化けた一匹の竜と、ひとりの人の子が向かい合っていた。
柔らかな午後の陽射しが簡素なつくりの窓から差し込み、香草茶の湯気を照らしている。優しい、けれど独特の香りを立ち上らせるそれを一口飲んで、竜は少しだけ目を細めた。
「……苦い。時間を間違えた」
無理に飲むなと言う竜の言葉を聞いているのかいないのか、人の子が香草茶を飲む。表情を変えぬその様子を見て、竜はゆるやかに口を開く。
「…で、だ。竜種がどうしてこんな集落を、という話だが。端的に言えば竜種以外のつがいのためだ。我々は肉体も精神も強靭だ。一匹で永きを生きる為に“そうできている”と言う方が正しいだろう。だが、竜種以外の生き物はそうではない。つがいとだけ過ごす永きに耐えうる精神がない」
エルフなぞの長命の種は別だろうが、と竜が続ける。人の子が、その碧眼を瞬かせた。
「気が触れたり、石のように眠るつがいに悩む竜たちに、ある時、人の世の観察が趣味であった竜が提案したそうだ。『竜種以外のつがいを持つもので集落を作ればいい』と」
「…それは、すんなりいった?」
「どの程度をそう言うのかは知らんが。まぁ、家を建てる以外は案外すんなり行ったのではないか?」
言いながら、竜は外を見る。人の子もつられて外に視線を向けた。陽の光の中、きゃあきゃあと嬌声を上げながら、小さな竜と二つ足で駆ける獣の子がじゃれあっている。その向こうでは、人に化けた竜の娘と人の娘が香りの強い花を麻布の上に広げて干している。野良仕事を終えた獣人は木陰に座って駆け回る我が子を眺めていた。
──窓の外には、日常生活が広がっている。何者かがそれを脅かす可能性など誰も考えてない、穏やかな光景だ。
「…そう。きっと、そうなんだろうね」
人の子が、香草茶の入ったカップをそっと机に置く。
「竜は、何でも持ってるね」
今日の天気が晴れであることを告げるのと同じ響きで、人の子が言う。
窓の外を見ていた竜は、人の子を見た後、香草茶を飲み干してからカップを机に置いた。
「何でもは持っていない。我々には、生まれてから永らくの間、与えられぬものがひとつだけある。お前たち、か弱き短命のものはほとんどが母の手を離れられぬうちに与えられるのに、だ」
「…そんなものが、あるの?」
「ある」
人の子の碧眼、感情の見えない目が真っ直ぐに竜を見ていた。竜は、氷のような薄い青でそれを受け止める。口の端に、僅かに笑みを張り付けて。
「名前だ」
「名前?」
そんなものが?と人の子が首を傾げる。同じく名のないお前にはわからないだろうが、と竜の笑みが深くなる。
「名前とは命の輪郭だ。形のない魂に与えられる形、世界に存在を縫いとめる為の楔、そして、命をわかつたったひとりと己を繋ぎ止める鎖。名によって魂や命を縛られる、などというのはよくある話だろう?」
言われて、人の子は己の居た場所を思い出す。そういった例もあったな、と。
「竜種もまた、名を奪われれば魂を縛られる。…この辺りは神の敷いた法なのだろう。名がある以上、逃れられぬ定めだ。よって竜は、竜との間に生まれた我が子に名付けを行わない。故に名前がない」
「不便だね」
「人であればそうだろうな。おまえたちは弱い。形なき魂は歪みやすく傷つきやすい。竜であればこそ取れる暴挙だろうよ」
──何でも持っているはずの竜にも、与えられないものがある。持たざるものがある。
力なく、捨て駒として生き、命だけを本能が繋ぐ無味乾燥の生。力を持ち、誰にも縛られず、世界を悠々と生きる竜とはあまりにも違ういきものである己との意外な共通点を見つけて、人の子は胸の奥の疼きに気付く。けれどそれをどう呼称するかも知らないまま、人の子は再び香草茶に手を伸ばして飲む。
名のない者たちの、午後の一幕である。
【ひとつだけ】 名前のないものたち
ブルネットの、緩くうねる髪の奥で女はほんの少しだけ目を細める。君にとって大切なものとは?という問いを胸の中で繰り返して、そっと視線を落とした。
まつろわぬ民の、やはりまつろわぬ者である女にとって、身体や心といった誰しもがそうであるもの以外に大切なものはそう多くない。幾ばくかの金銭。出自を示すための古びた木彫りの指輪。踊りのための靴。
女の右手が自らの左肩に触れて、ぴたりと止まる。
床に近い宙を彷徨っていた視線がゆるやかな速度で肩に触れた手を見て、女はほんの少しだけ眉根を寄せた。
なんとも、まぁ。
存外に、女々しいものね。
次いで女が浮かべた苦笑いに、その様子を見ていた驢馬が底の見えない黒々とした目を瞬かせる。動物よろしく彼──あるいは彼女──は尾を一度だけ振って、どこかへと歩いていってしまう。
その様子を見送った女は、肩に触れた手をそっと滑らせる。いつかの遠い昔、その肩にかかっていたショールの感触をなぞるように。
耳の奥に、こびりついたままの声がリフレインする。
──いつか故郷に連れて行くよ。小さな家を建てて、二人で住むんだ。
女は目を閉じて、緩くかぶりを振る。髪が揺れてささやかな音を立て、耳の奥の声をかき消す。
ゆっくりと開かれた女の目に映るのは、今までいたどの国でも見た事のない木々の覆い茂るさまだ。
それは女に対して嫌でも現実を突き付ける。
もう、何もないのだ。柔らかなショールも、愚かしい約束も、生涯をかけて渡り歩いたあの無限に続くとも思える大地も、何もかも。
──それでもいま、生きているという事実ひとつだけを、取り残して。
【大切なもの】 ディナ