霜月ぜろ

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 この広い世界において、単体での強さに比肩するもののない生物が、竜である。
 人が容易に立ち入れぬ深い樹海を抜け、今まで誰も橋をかけることの出来ていない深く長い断崖の向こう、世の誰もが霊峰と呼ぶひときわ高い山のどこかに、竜とそのつがいの集落があると言われている。
 (眉唾ものだ、と思っている者もいるが、三つのキャラバンと四人の優秀な護衛を失い、自らも片足を失いながらも孵る前の竜の卵をその集落から盗み出した富豪がおり、持ち帰って三日の後、竜の怒りによって富豪の住む街は半壊の憂き目に遭ったという歴史からその集落の存在を信ずる者は多いという)

 その、存在が御伽噺のような竜の集落の中、小さな小屋の中で、人に化けた一匹の竜と、ひとりの人の子が向かい合っていた。
 柔らかな午後の陽射しが簡素なつくりの窓から差し込み、香草茶の湯気を照らしている。優しい、けれど独特の香りを立ち上らせるそれを一口飲んで、竜は少しだけ目を細めた。

「……苦い。時間を間違えた」

 無理に飲むなと言う竜の言葉を聞いているのかいないのか、人の子が香草茶を飲む。表情を変えぬその様子を見て、竜はゆるやかに口を開く。

「…で、だ。竜種がどうしてこんな集落を、という話だが。端的に言えば竜種以外のつがいのためだ。我々は肉体も精神も強靭だ。一匹で永きを生きる為に“そうできている”と言う方が正しいだろう。だが、竜種以外の生き物はそうではない。つがいとだけ過ごす永きに耐えうる精神がない」

 エルフなぞの長命の種は別だろうが、と竜が続ける。人の子が、その碧眼を瞬かせた。

「気が触れたり、石のように眠るつがいに悩む竜たちに、ある時、人の世の観察が趣味であった竜が提案したそうだ。『竜種以外のつがいを持つもので集落を作ればいい』と」
「…それは、すんなりいった?」
「どの程度をそう言うのかは知らんが。まぁ、家を建てる以外は案外すんなり行ったのではないか?」

 言いながら、竜は外を見る。人の子もつられて外に視線を向けた。陽の光の中、きゃあきゃあと嬌声を上げながら、小さな竜と二つ足で駆ける獣の子がじゃれあっている。その向こうでは、人に化けた竜の娘と人の娘が香りの強い花を麻布の上に広げて干している。野良仕事を終えた獣人は木陰に座って駆け回る我が子を眺めていた。
 ──窓の外には、日常生活が広がっている。何者かがそれを脅かす可能性など誰も考えてない、穏やかな光景だ。

「…そう。きっと、そうなんだろうね」

 人の子が、香草茶の入ったカップをそっと机に置く。

「竜は、何でも持ってるね」

 今日の天気が晴れであることを告げるのと同じ響きで、人の子が言う。
 窓の外を見ていた竜は、人の子を見た後、香草茶を飲み干してからカップを机に置いた。

「何でもは持っていない。我々には、生まれてから永らくの間、与えられぬものがひとつだけある。お前たち、か弱き短命のものはほとんどが母の手を離れられぬうちに与えられるのに、だ」
「…そんなものが、あるの?」
「ある」

 人の子の碧眼、感情の見えない目が真っ直ぐに竜を見ていた。竜は、氷のような薄い青でそれを受け止める。口の端に、僅かに笑みを張り付けて。

「名前だ」
「名前?」

 そんなものが?と人の子が首を傾げる。同じく名のないお前にはわからないだろうが、と竜の笑みが深くなる。

「名前とは命の輪郭だ。形のない魂に与えられる形、世界に存在を縫いとめる為の楔、そして、命をわかつたったひとりと己を繋ぎ止める鎖。名によって魂や命を縛られる、などというのはよくある話だろう?」

 言われて、人の子は己の居た場所を思い出す。そういった例もあったな、と。

「竜種もまた、名を奪われれば魂を縛られる。…この辺りは神の敷いた法なのだろう。名がある以上、逃れられぬ定めだ。よって竜は、竜との間に生まれた我が子に名付けを行わない。故に名前がない」
「不便だね」
「人であればそうだろうな。おまえたちは弱い。形なき魂は歪みやすく傷つきやすい。竜であればこそ取れる暴挙だろうよ」

 ──何でも持っているはずの竜にも、与えられないものがある。持たざるものがある。
 力なく、捨て駒として生き、命だけを本能が繋ぐ無味乾燥の生。力を持ち、誰にも縛られず、世界を悠々と生きる竜とはあまりにも違ういきものである己との意外な共通点を見つけて、人の子は胸の奥の疼きに気付く。けれどそれをどう呼称するかも知らないまま、人の子は再び香草茶に手を伸ばして飲む。

 名のない者たちの、午後の一幕である。



【ひとつだけ】 名前のないものたち

4/4/2024, 3:13:45 AM