霜月ぜろ

Open App

 ブルネットの、緩くうねる髪の奥で女はほんの少しだけ目を細める。君にとって大切なものとは?という問いを胸の中で繰り返して、そっと視線を落とした。
 まつろわぬ民の、やはりまつろわぬ者である女にとって、身体や心といった誰しもがそうであるもの以外に大切なものはそう多くない。幾ばくかの金銭。出自を示すための古びた木彫りの指輪。踊りのための靴。
 女の右手が自らの左肩に触れて、ぴたりと止まる。
 床に近い宙を彷徨っていた視線がゆるやかな速度で肩に触れた手を見て、女はほんの少しだけ眉根を寄せた。

 なんとも、まぁ。
 存外に、女々しいものね。

 次いで女が浮かべた苦笑いに、その様子を見ていた驢馬が底の見えない黒々とした目を瞬かせる。動物よろしく彼──あるいは彼女──は尾を一度だけ振って、どこかへと歩いていってしまう。
 その様子を見送った女は、肩に触れた手をそっと滑らせる。いつかの遠い昔、その肩にかかっていたショールの感触をなぞるように。
 耳の奥に、こびりついたままの声がリフレインする。
 ──いつか故郷に連れて行くよ。小さな家を建てて、二人で住むんだ。
 女は目を閉じて、緩くかぶりを振る。髪が揺れてささやかな音を立て、耳の奥の声をかき消す。
 ゆっくりと開かれた女の目に映るのは、今までいたどの国でも見た事のない木々の覆い茂るさまだ。
 それは女に対して嫌でも現実を突き付ける。

 もう、何もないのだ。柔らかなショールも、愚かしい約束も、生涯をかけて渡り歩いたあの無限に続くとも思える大地も、何もかも。

 ──それでもいま、生きているという事実ひとつだけを、取り残して。


【大切なもの】 ディナ

4/3/2024, 2:10:59 AM