陽が、差し込んでいた。
ベッドの上で目を覚ました狼の獣人は、少し赤みのある金の目を瞬かせる。
ゆるやかに獣人が上体を起こすと、薄がけの布団がはらりと落ちた。麻の寝間着には、布団の中にこもっていた熱がまだ残っていた。
「朝…。私の、部屋」
女にしては少し低めの声が、ぼんやりと部屋の中に響く。まだ夢の中から覚めきらない目元をこすったあと、獣人は癖の強い青灰色のロングヘアをそっと撫で付けた。
そして、ゆっくりと窓の外を見る。彼女の視界に映るのは、いつも部屋から見ている光景だった。
街道から外れ、なだらかな山の麓で少しだけ森の中に分け行った先にある、狼の獣人ばかりが住まう少し変わった村。それが、今、彼女──名をロンドという──が住んでいる村だった。
「ほんとに終わっちゃったんだ。もう一人の私の世界との、入れ替わり」
呟いた声は、ひどく小さかった。
──彼女の住む村からさらに山の方へと分け行った先には、小さな泉がある。この泉は不思議な性質をしており、満月の夜に月から注がれる光に反応して魔力を貯めるのだという。数年がかりで泉に溜まった魔力はいつしか飽和し、淡い光と共に周囲に無差別に撒かれる事となる。その時、泉を覗き込み、水面に姿を映すものがいると、泉は可能性の世界の人物とその者を数日のあいだ交換する、という現象が起こる。
この不思議な現象は、村の民だけが知るものとされ、世には伏せられている。可能性の世界を覗く、などという不可思議が知れれば要らぬ禍を招くからだ。
そして、かつての村人たちはこの泉を覗く事を風習のひとつとし、決まりを設けた。
当日に泉を覗く権利を有するものは一人だけ。それは村の住人の中からくじで選ばれ、くじへ参加することができる者は未婚の者のみとする。選ばれた者が泉へ向かう時は、腕利きのもの数人と村長が同行する。同行者は泉を覗くことを許されず、これを破った場合はその者の孫の代までくじへ参加する権利を喪う、といったものだ。
そして、今回のくじで選ばれたのはロンドであった。
どんな世界を見るのかと周囲に聞かれた彼女は、自らが父と同じ冒険者として生きている世界を見てみたい、と思った。父のように戦う自分自身が生きる世界はどんなものだろう。胸を高鳴らせながら、淡い光を放つ水面をのぞき込んだロンドが見たものは、想像することすらしなかったものだった。
たどり着いた世界には、ロンドが知るものは何も残っていなかった。泉の周りにはエルフが一人いるだけで、村のものは誰もいない。困惑しながら村へ続く道だったものを辿って行き着いた先は、集落があった事が窺えるだけの開けた場所だった。あとをついてきたエルフの青年に話を聞くと、ここは彼が知るロンドの故郷だった場所だという。墓参りに訪れたのだ、と。エルフの示した先を見ると、不格好で簡素な木造りの十字架の群れがあり──ロンドはそこで一度気を失った。
入れ替わりのうちの一日をそうして無駄にしたロンドは、気絶した自身を介抱してくれたエルフと共に二日を過ごした。昼は周囲を散策し、夜は焚き火のもとで野営をする。ロンドはこちらの彼女が知らなかった風習の事や、自らの現在の状況、そして彼女が生きている村のことについて話をした。エルフの青年は、冒険者として生きるロンドのこと、二人が拠点にしている街のこと、二人の関係についてなどを、ぽつりぽつりと語ってくれた。
エルフの青年の話はロンドが父から聞いた話よりもりずっと過酷で、苦しくて、血なまぐさくて、でも輝いていた。
ひとりで生きる、と背筋を伸ばして、神経を尖らせて、父の持ち物だった、とても大きくて重たい、柄まで金属でできたハルバードを手に戦うこの世界の自分に会ってみたいな、と思ったのだ。
そしてそれは、入れ替わりの終わる間際に叶うこととなった。
そこはぼんやりと、すべてが淡い月光に包まれた場所だった。ロンドはあの泉の上に立っており、もう一人の人物と向かい合っていた。
同じ色の目で、長さの違う同じ色の髪で、全く違う服装で、重たいハルバードを片手で持っているのは、冒険者として生きるロンドだった。
「あなたが、冒険者の私?」
「…ああ」
村娘がそろりそろりと冒険者へ歩み寄っていく。近付くにつれて、冒険者の細かい部分がよく見えるようになる。手にしたハルバードは地下の倉庫で見たものよりも細かい傷が増えて、けれど刃の部分はよく手入れされて鋭く光っている。握る手は無骨で、肉刺や傷跡が見て取れる。短い髪の毛は手入れが行き届いているとは言い難く、顔にだって傷跡があった。そして、目元は、ほんのりと赤くなっている。
「父さまや、母さまに、会った?」
「会った」
短く答える冒険者の声は少しぶっきらぼうで、村娘のものよりも低い。
「嬉しかった?それとも、…つらかった?」
「………両方、だな。どうして自分の帰る場所にこの光景がないんだろう、って、思った」
でも、と言葉を続けながら、冒険者が少しだけ目を細めた。
「あなたの世界に、あの光景がなくて良かったとも、思った」
その言葉に、村娘は冒険者の何も持っていない左手をそっと両手で包んで瞳を覗き込む。同じ色の、同じように涙で潤んだ瞳を。
「ほんとに、入れ替われたらよかったのに。そしたら、そしたらあなたはずっと皆と」
「駄目だ」
冒険者が、柔らかな声音で言う。狼の耳を少し伏せて、困ったように笑いながら。
「あれは、あなただけの世界で、あなただけの家族だ。……自分の、父さんや母さんじゃないんだ」
「でも、あんな…あんな光景…」
「いいんだ」
はっきりと冒険者が言う。泣きだしてしまった村娘の目から、はらはらと涙が落ちていた。それは泉の水面に届くことなく、途中で光の粒になって消えていく。
「皆とまた別れるのは、正直に言うと辛かった。でも、自分にも大事なものが出来たんだ。彼らのとこにこのまま帰る。…それでいいんだ」
泉に近い足元から、光によって身体が解けるように消え始めた。これで、本当に終わりなのだと誰に告げられるでもなく二人ともが理解した。
あっという間にやってきた別れに、二人が選んだ言葉は感謝の言葉だった。
ノックの音に、ロンドが顔を上げる。入るわね、と母の声がしてドアが開いた。自身と同じように癖のある長い髪が見えて、ロンドは母の元へと駆け出して抱き着く。オーブンで焼いていたのであろうパンの匂いが染みたエプロンに顔を埋めると、彼女の目からは涙が溢れ出した。
やっぱりあなたも泣き虫ねぇ、と優しい声が言うのを聞きながら、涙で濡れた声が小さくただいまを告げた。
【それでいい】 “あの日”が訪れなかったロンド
4/5/2024, 11:07:03 AM