閉ざされた日記。他の誰にも見せない自分のための記録。
閉ざされた日記では、自分自身と向き合うことができる。
遠い君へ
今日のお題である「木枯らし」の意味がよくわからなかったので調べてみた。明鏡国語辞典に尋ねると、「秋の末から冬の初めにかけて吹く強く冷たい風。」とのこと。
今って冬真っ盛りじゃない…?
なんだか最近お題に盾突いてばかりだが、お題の意味がわからないので仕方がない。いや、これは私の語彙力の問題です。すみません…
責任転嫁に失敗して己の無知を身に染みて実感していると、別の辞書「デジタル大辞泉」が話しかけてきた。「木枯らしはね、すりこぎをいう近世女性語でもあるんだよ。」
我問う、「すりこぎってなんだよ。」と。
辞書曰く、「すり鉢で、物をするのに用いる棒だよ。使うに従って短くなることから、少しも進歩せずかえってだんだん退歩する人をあざけっていう語でもあるんだよ。」と。
「木枯らし」という語の別の意味を知ることができた。だが、進歩せず、むしろ退化するひとをあざけるような単語がお題になるとは思えない。お題の意味を調べれば調べるほど、お題の真意が見えなくなっていく。今の私こそまさに「木枯らし」ではないか!?
ーーーーーーーーー中略ーーーーーーーーー
「木枯らし」は木の葉の払い落としながら吹く冷たい風という意味らしい。(ニッポニカ先生曰く。) その様子から「木を枯らしてしまうもの」という名前がついたようだ。
ふむ。では書く習慣っぽいことでも書いて終わろう。人生における「木枯らし」は時間の流れであろう。年をとると時間は瞬く間に過ぎ去ってゆく。若くみずみずしい心を持っている頃には長く感じる一年が、年を重ねるにつれて短くなっていく。心が冬の季節に入るにつれて、時間は加速していくのだ。この現象は「人生の木枯らし」と呼べるのではないか。
ちょっと無理があるか。
遠い君へ
今日のお題は「美しい」だ。語尾が「い」で終わっているから形容詞だ。つまり、今日は「美しい」何かについて書けばいいということだ。だが、私には「美しさ」が何なのかがよくわからなかった。
「美しさ」について考えるために、まず「美しい」に修飾される単語を具体的にイメージしてみた。「美しい景色」、「美しい顔」、「美しい音色」などを思い浮かべた。これらの単語から推測するに、美しさとは視覚や聴覚を通して感じられるものなのだろう。
次に、「美しさ」をより具体的に定義するため、「美しくないもの」について考えた。ここでは、「美しい」の対義語である「醜い」や「汚い」から連想されるものを思い浮かべた。「汚物」、「ドブ」、「醜女」あたりだろう。
…………眠くなってきた
……続きはまた明日…zzzz
Liebe Fern
この世界には窪みがある。落とし穴のようなものではなく、もっと緩やかな窪みだ。人はこの窪みに落ちていく。その窪みの中心には、その人の心を魅了してやまないものが置いてある。そして、この窪みの数や大きさ、位置、置いてあるものは人によって異なっている。
同じ世界に住んでいても、世界の見え方は人それぞれだ。だからこそ、我々はお互いの主観的な世界の差異を言葉で表現し、衝突を避け、時に共感する。
君の世界にはどんな窪みがあって、その中心には何があるのだろうか。私には君の世界を見ることができないから教えてほしい。
今の私の世界には一際大きな窪みがある。そこに転がり落ちていくと、そこには君がいる。
この世界には君がいる。
遠い君へ
「どうしてそんなにかわいいの?」と聞くと、多分君は「知りませんよそんなこと」って呆れ気味に答えるのだろう。
実際に君に尋ねることはできない。どうしても越えられない壁があるから。住む世界がたった一つ違うだけなのに、どうしてこんなにも遠いのだろうか。
君は虚構に過ぎなくて、この世界に君の実体はなくて、でもいつだって私の心の一番弱いところを掴んでくる。君は私を掴んで離さないのに、どうして私は君に触れることさえできないのかな。
「どうして君はそんなにかわいいの?」
聞いても君からの返事はない。届くはずもない質問を繰り返すうち、私の中で答えができてしまった。そして頭の中に君の声が響く。
「どうしても触れられないから、なおさら愛おしく感じるんですよ。」
う〜ん、君はこんなこと言わない!
だが私の浅薄な語彙と表現力では君の言いそうなセリフを捻り出すことさえできない。
どうして君はこんなにも遠いのだろうか…
遠い君へ