夕日が沈むと同時に、僕は眼鏡をかける。
透明なフレームに、虹色のレンズという奇妙な眼鏡を。
18時25分。
リビングの中で、金色の鱗粉のような輝きが生まれる。それは緩やかな竜巻のような渦を描き、女性の姿が――足が、手が、胴体が、頭が現れる。
瞬きをした瞬間には、僕の目の前に、照れたようにはにかむ奥ゆかしい女性――瑠香が立っている。
「こんばんは、大樹」
僕はぎこちなく眼鏡の縁に触り、優しく微笑む瑠香を見る。何も返さずにいると、瑠香は僕の頬に触れた。触れられた感覚がない。体温も感じない。
ぐっと下唇を噛む。
「駄目よ、噛んじゃ。その癖、直さないとね」
12年間、ずっと僕の妻として傍に居てくれた彼女が、困ったように眉を下げて口角をゆるりと上げた。生きていた時のままの彼女と、同じ仕草だ。
進化したAIは、亡くなった人間のデータを預ければ、専用の眼鏡を通して「ゴースト」の姿になって現実の世界に現れる。
姿も、話し方、癖、過去の記憶……。
それら全てをAIが管理し、眼鏡をかければ故人を復活させることが出来る。バーチャルとして。
僕はこれで4回、眼鏡を使っている。
目の前には瑠香が居る。笑っている瑠香が……。
思わず眼鏡のフレームを乱暴に外して、床に投げつける。一瞬にして瑠香の姿が消える。
残っているのは、カーテンが閉まっていない暗いリビングの静寂だけだった。
唇が震え、鼻の奥が熱くなる。
瞳から熱い涙が溢れ、こめかみが痛くなる。
AIで人の傷が癒せるものか。
失った大切な人を蘇らせられるものか。
「瑠香、会いたいよ」
僕は膝から崩れ落ちて背中を丸め、祈るように、許しを乞うように両手を組んだ。
君の目を見つめると、僕はお腹が空く。
海の中で生きていても、スーパーの店頭に並べられても、こんがりとグリルで焼かれても、目を見開いたままの君。
海の美しさを瞳に刻んでいる君が、今は僕の顔をじぃっと見つめている。
醤油をたっぷりと君にかける。
「いただきます」
お魚さん、君の全てを僕に食い尽くされて、君が骨だらけの姿になってゴミに棄てられるまで、ずっと僕の顔を見ていてね。
星空の下で、遥か遠くに見える真珠のような光を見る。空に散らばっている無数の星に囲まれて、わたしはこの時代に生きている。
今、この同じ時代に、同じ時間の中で生き、君と出会って心を通わせている今日を「幸せ」と呼ばずになんと表現すれば良いのだろう。
君の笑顔は宝物だ。
わたしの胸元に下がる指輪に誓った、あの日の想いは決して褪せることはない。
もし君の笑顔が誰かによって曇るなら――。
わたしは決して許さない。
「ねぇ、百合香さん。どうしたんですか、ぼぅっとして」
君が微笑みながら話しかけてくる。わたしは微笑み返して、星空を見上げる。同じ電車を待つわたしたちの間を、五月の生ぬるい風が吹き抜けていく。
「いいえ、ちょっと考え事を」
そうですか、と君は言う。困ったように耳たぶを触る癖。その手――薬指には結婚指輪がつけられている。わたしとの結婚指輪――ではない。君にはもう別の人がいる。わたしは君に手を出そうとは思わない。けれど、相手が君を少しでも傷つけたら話は別だ。
「なにか困ったことがあったら、わたしに言ってくださいね。わたしで良かったら相談に乗りますよ」
出来れば一秒でも早く、苦しみをわたしに言ってくれますように。
そんな願いを込めて、わたしは上司に微笑んだ。
わたしが誕生日を迎えた日には、必ず一人で遠足に行くことにしている。場所はどこでもいい――近場の山でも、車で二時間ほど向かった先にある神秘的な沼でも。お気に入りの水筒と、一つだけ選んだ百円以下の菓子を鞄に入れて、ぼぅっと自然を眺めながら歩くのだ。
今日は二十七回目の誕生日。四月十八日。
わたしは車で三十分ほどの人気のない湖に行き、堤防に腰掛けて七十二円のドーナツを口にする。
心に沁みるような青空。足元から響く波の音。舌に広がる甘いチョコレートのドーナツ。首元を撫でる優しい風。水筒の蓋を開けようと、だらしなく食べかけのドーナツを口にくわえた瞬間だった。
ドーナツが落ちて、ぽちゃん、と音をたてて水の中に沈んでしまった。しまった、落としてしまった――。
思わず「あぁ」と情けない声が漏れる。まだ半分しか食べていなかったのに、と恨めしく水面を睨んでいると、急に足元から「う、美味い!」と男の子の声が聞こえた。
ぎょっとして堤防から離れようとした瞬間、誰かがわたしの足首を掴んだ。力強く冷たい手に、ぐん、と身体が水面に引っ張られる。
落ちる!