鳥かごの中に、私が捕らえた蝶がいる。ひらひらと羽ばたく蝶の羽は絹みたいに滑らかで、動く度に羽の色が鮮やかに変わる。
ブルー、イエロー、グリーン、ブルー。
不思議な蝶だわ。ずっと見ていると、何だか蝶が膨らんで見えてくるわ。ほら、見て。鳥かごの中でポンプで風船が膨らむみたいにムクムクと大きくなってる。
ぎちっと鳥かごが音を立てる。鳥かごの柵が曲がる、どんどん蝶が大きくなってはち切れんばかりに膨らんで――鳥かごが水ヨーヨーのように破裂した。
鳥かごの破片が私に一直線に向かってくる。凄まじい衝撃と脳みそに鋭利な物体が突き刺さる感覚。
ぐらっと身体が仰向けに倒れる間際、巨大な蝶は窓を突き破って青空へと羽ばたいていった。破片が舞うように虹色に輝いて飛び散る。まるで水しぶきのように、美しく。
あぁ、閉じ込められるのが嫌だったのね。
私もそうよ。
閉じ込められた狭い世界は、嫌いよ。
これからも、ずっと私は小説を書くことも、考えることも、色んな本を読むのも好き。
夕日が沈むと同時に、僕は眼鏡をかける。
透明なフレームに、虹色のレンズという奇妙な眼鏡を。
18時25分。
リビングの中で、金色の鱗粉のような輝きが生まれる。それは緩やかな竜巻のような渦を描き、女性の姿が――足が、手が、胴体が、頭が現れる。
瞬きをした瞬間には、僕の目の前に、照れたようにはにかむ奥ゆかしい女性――瑠香が立っている。
「こんばんは、大樹」
僕はぎこちなく眼鏡の縁に触り、優しく微笑む瑠香を見る。何も返さずにいると、瑠香は僕の頬に触れた。触れられた感覚がない。体温も感じない。
ぐっと下唇を噛む。
「駄目よ、噛んじゃ。その癖、直さないとね」
12年間、ずっと僕の妻として傍に居てくれた彼女が、困ったように眉を下げて口角をゆるりと上げた。生きていた時のままの彼女と、同じ仕草だ。
進化したAIは、亡くなった人間のデータを預ければ、専用の眼鏡を通して「ゴースト」の姿になって現実の世界に現れる。
姿も、話し方、癖、過去の記憶……。
それら全てをAIが管理し、眼鏡をかければ故人を復活させることが出来る。バーチャルとして。
僕はこれで4回、眼鏡を使っている。
目の前には瑠香が居る。笑っている瑠香が……。
思わず眼鏡のフレームを乱暴に外して、床に投げつける。一瞬にして瑠香の姿が消える。
残っているのは、カーテンが閉まっていない暗いリビングの静寂だけだった。
唇が震え、鼻の奥が熱くなる。
瞳から熱い涙が溢れ、こめかみが痛くなる。
AIで人の傷が癒せるものか。
失った大切な人を蘇らせられるものか。
「瑠香、会いたいよ」
僕は膝から崩れ落ちて背中を丸め、祈るように、許しを乞うように両手を組んだ。
君の目を見つめると、僕はお腹が空く。
海の中で生きていても、スーパーの店頭に並べられても、こんがりとグリルで焼かれても、目を見開いたままの君。
海の美しさを瞳に刻んでいる君が、今は僕の顔をじぃっと見つめている。
醤油をたっぷりと君にかける。
「いただきます」
お魚さん、君の全てを僕に食い尽くされて、君が骨だらけの姿になってゴミに棄てられるまで、ずっと僕の顔を見ていてね。
星空の下で、遥か遠くに見える真珠のような光を見る。空に散らばっている無数の星に囲まれて、わたしはこの時代に生きている。
今、この同じ時代に、同じ時間の中で生き、君と出会って心を通わせている今日を「幸せ」と呼ばずになんと表現すれば良いのだろう。
君の笑顔は宝物だ。
わたしの胸元に下がる指輪に誓った、あの日の想いは決して褪せることはない。
もし君の笑顔が誰かによって曇るなら――。
わたしは決して許さない。
「ねぇ、百合香さん。どうしたんですか、ぼぅっとして」
君が微笑みながら話しかけてくる。わたしは微笑み返して、星空を見上げる。同じ電車を待つわたしたちの間を、五月の生ぬるい風が吹き抜けていく。
「いいえ、ちょっと考え事を」
そうですか、と君は言う。困ったように耳たぶを触る癖。その手――薬指には結婚指輪がつけられている。わたしとの結婚指輪――ではない。君にはもう別の人がいる。わたしは君に手を出そうとは思わない。けれど、相手が君を少しでも傷つけたら話は別だ。
「なにか困ったことがあったら、わたしに言ってくださいね。わたしで良かったら相談に乗りますよ」
出来れば一秒でも早く、苦しみをわたしに言ってくれますように。
そんな願いを込めて、わたしは上司に微笑んだ。