紅茶の香りを嗅ぐと、相棒の右京さんがいつも脳裏に浮かぶ
衣替えの時期になりました。もうすぐ冬が訪れますが、雪と同時にわたしの前に現れてくれる貴方に会う日を楽しみにしています。
出来れば、その日まで命が持って欲しいなと思います。わたしは九十を迎えました。雪の精霊である貴方と初めて出会った十二のわたしに比べて、だいぶお転婆さは消えましたけれど、あなたを恋い慕う想いは強くなるばかりです。
貴方は約束してくれましたね。冬の季節に命が尽きそうになるのであれば、俺が腕に包んで優しい死を与えると。そのおかげで昔から抱いていた死の恐怖が多少、薄れましたのよ。
わたしは冬の時期だけに会える貴方を、心待ちにしています。
鳥かごの中に、私が捕らえた蝶がいる。ひらひらと羽ばたく蝶の羽は絹みたいに滑らかで、動く度に羽の色が鮮やかに変わる。
ブルー、イエロー、グリーン、ブルー。
不思議な蝶だわ。ずっと見ていると、何だか蝶が膨らんで見えてくるわ。ほら、見て。鳥かごの中でポンプで風船が膨らむみたいにムクムクと大きくなってる。
ぎちっと鳥かごが音を立てる。鳥かごの柵が曲がる、どんどん蝶が大きくなってはち切れんばかりに膨らんで――鳥かごが水ヨーヨーのように破裂した。
鳥かごの破片が私に一直線に向かってくる。凄まじい衝撃と脳みそに鋭利な物体が突き刺さる感覚。
ぐらっと身体が仰向けに倒れる間際、巨大な蝶は窓を突き破って青空へと羽ばたいていった。破片が舞うように虹色に輝いて飛び散る。まるで水しぶきのように、美しく。
あぁ、閉じ込められるのが嫌だったのね。
私もそうよ。
閉じ込められた狭い世界は、嫌いよ。
これからも、ずっと私は小説を書くことも、考えることも、色んな本を読むのも好き。
夕日が沈むと同時に、僕は眼鏡をかける。
透明なフレームに、虹色のレンズという奇妙な眼鏡を。
18時25分。
リビングの中で、金色の鱗粉のような輝きが生まれる。それは緩やかな竜巻のような渦を描き、女性の姿が――足が、手が、胴体が、頭が現れる。
瞬きをした瞬間には、僕の目の前に、照れたようにはにかむ奥ゆかしい女性――瑠香が立っている。
「こんばんは、大樹」
僕はぎこちなく眼鏡の縁に触り、優しく微笑む瑠香を見る。何も返さずにいると、瑠香は僕の頬に触れた。触れられた感覚がない。体温も感じない。
ぐっと下唇を噛む。
「駄目よ、噛んじゃ。その癖、直さないとね」
12年間、ずっと僕の妻として傍に居てくれた彼女が、困ったように眉を下げて口角をゆるりと上げた。生きていた時のままの彼女と、同じ仕草だ。
進化したAIは、亡くなった人間のデータを預ければ、専用の眼鏡を通して「ゴースト」の姿になって現実の世界に現れる。
姿も、話し方、癖、過去の記憶……。
それら全てをAIが管理し、眼鏡をかければ故人を復活させることが出来る。バーチャルとして。
僕はこれで4回、眼鏡を使っている。
目の前には瑠香が居る。笑っている瑠香が……。
思わず眼鏡のフレームを乱暴に外して、床に投げつける。一瞬にして瑠香の姿が消える。
残っているのは、カーテンが閉まっていない暗いリビングの静寂だけだった。
唇が震え、鼻の奥が熱くなる。
瞳から熱い涙が溢れ、こめかみが痛くなる。
AIで人の傷が癒せるものか。
失った大切な人を蘇らせられるものか。
「瑠香、会いたいよ」
僕は膝から崩れ落ちて背中を丸め、祈るように、許しを乞うように両手を組んだ。