月風穂

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2/27/2024, 1:14:19 PM

【現実逃避】

現実逃避をしたところで現実は変わらぬのだ、とわかってしまった頃から、私は少々大人になった心地がする。
今では減ってきてはいるが、まだ現実逃避をすることはある。
時折意図的に紡ぐこの不用意な時間は、私の心を潤しているようにも思えるのである。

私は現実逃避にパターンを持たせている。
他人が完成させた小説や映画は特にお薦めである。
私以外の人間が作った世界を知ることで、いかにちっぽけな悩みを持っているかが判明する。
聖書のように神が救ってくれるわけではないが、人を救うのは人と思えば、神の出る幕ではない。
こんなところでいちいち出られていては、神も気が休まらないってもんである。

次いで自分会議である。
脳内の何人かの自分と話し合うのである。
自分だけなので結論は予定調和であるが、まるで他人が会議しているかのような錯覚を感じさせ、物事を客観視する時間となる。
ひとりだと寂しいので、私は分身を何人か作ることで気をまぎらわせるのだ。
敢えて時間を置くことで、頭をクールダウンさせつつ、次はどう行動すべきかを読むのだ。


だがやはり、そんな現実逃避も歳を重ねると変わっていく。
結局のところ私は現実に不安を感じる。
現実逃避をしているのに現実の不安が頭を過るため、いてもたってもいられなくなるのだ。
現実逃避をするために現実と向き合う。
つまりは現実と向き合った後で現実逃避を実施することもあるのだ。
これはご褒美という名目となり、順序を変えるだけで意味が変わってくるのだ。
かといって現実といつ向き合おうが、順序を変えようが結末は変わらないのだから、とっとと現実に折り合いをつけてから挑むのがいいところである。
物事に愛を見出だせば、何だか現実とも戦えるように思えるのだ。
要は愛と勇気である。
私はアンパンマンか。

2/26/2024, 12:11:02 PM

【君は今】

“君は今”となると、大概の人は特別な人を想像するであろう。
私は大して何でもない人の事を思ったりしている。

例えば、一緒のクラスになったが大して話すこともなかったあいつとか。
例えば、たまたま授業が一緒だったとなりのクラスのあの娘とか。
例えば、就活で偶然同じ企業を受け、その時なぜか面接後一緒に喫茶店でダベっていたあの人とか。
私にとって、人生においてどうでもいい人たちを思い浮かべることがあるのだ。
大概こういった人たちは私の事を微塵も覚えていないだろうが、別にそれは良いのだ。
私の記憶にいたという事実があるからである。
こう考えると、私は私自身が気持ちが悪い奴であるような気がしてならない。
人生において影響を与え得ることのない相手を覚えていることは、果たしてどんな意味があるのだろうか。


ふっと息をつき、椅子に座り込む。
何も考えずぼけ~っとしていると、時折過去の記憶が巡ってくる。
90年代のパソコンほど容量の少ない私の脳みそは、こんなに忘れても良い人の記憶を保存している。
私のキャッシュの削除の仕方は不明である。
データの削除方法も知らない。
無理やり削除しようとすると、身の回りの大事な記憶も忘れてしまいそうである。
なんと不器用な脳みそであろうか。

精密でなくともぼんやりと覚えている記憶。
私は今でも過去を生きているのだなと自らの未練がましさに嫌気が差す。
もう会わない人とは死人も同然なのだ。
わたしはもっと“今”の人に会いたいのだ。

まあそんな私にとってどうでもいい人たちであっても、今皆幸せでいてくれれば良いのである。
こんな未練ともおさらば!できるほど私の脳みその処理能力は高くないのである。
次のアップデートはいつだ?

2/25/2024, 12:01:57 PM

【物憂げな空】

いつになれば私は毎日楽しすぎるほどの人生を歩めるのであろう。
毎日が平凡であり、代わり映えのない日常は時に私の精神を疲労困憊へと導くのだ。

巷では充実した人生をなどと偉そうな講釈を垂れる広告は多い。
私だって充実した人生を送りたいのだ。
ささやかな幸せを毎日感じられなくさせているのはそちらのほうである。
ありもしない幸福を掲げ、他人の高貴な生活と一般人の生活を横並びにさせているのだ。

私は元来小さなことに幸せを感じる者である。
しかしそれでは物足りない。
私は欲張りでもあるのだ。困ったものである。
人は無い物ねだりをする。
可能であれば明日から働かず、毎日色々な場所へ行き、色々な人と出会い、色々な本や映画に触れ、色々な空の色をみたい。
生産され尽くした人生では、私は満たされなくなってきたのだ。
今の仕事は先が見えない。このままで良いのだろうか。
私本来の価値とは何か。
私が金を稼げなくなるとしたら、次にどんな人生が訪れるのだろうか。
なぜ私は金を稼がねばならぬのだろうか。
人として生きているからである。
私は資本主義社会の小さな歯車なのだ。
私は誰と競いあっているのだろうか。


連休最終日の夜はこれだから困る。
何の価値もない他人の人生観を自分に当てはめ、これだから私の人生は良くないと自己嫌悪に陥らせる。
空の色はピンク色などとふざけた事を言った子どもの頃の私は、今や空は青色などと至極つまらないことを言う大人へと成り果てた。

私の日常の空は物憂げであるが、時折日が差すことがある。
確かな予報などないが、私が歩んできた道は間違っているわけではないのだ。
空は平等で誰かの目からみればピンクにもなり、曇りは晴れとなる。
物憂げであろうが、空は空なのだ。
もしかしたらスーパーマン辺りが私を助けに来てくれるかもしれない。
では私もあり得ない未来を夢見て、明日を生きていけば良いのだろう。
楽しすぎる毎日にはほど遠いが、ちょっと楽しい毎日を感じていければ良い。
活発な空はそれはそれで下界の人間は大変であろう。
明日から少しは幸福を見つけてみようと頑張る私なのであった。終わり。

2/24/2024, 1:13:52 PM

【小さな命】

小さな命=こどもたちという繋がりがあり、やはり守るべきであるのは言うまでもない。
私たち大人もかつては小さな命であったのだ。
なぜ大人になれば人は傲慢になっていくのであろうか。

命は平等である。私もそう思う。
小さな命は守られるべきである。私はそう思う。
だがそれは人間の中の話である。
虫となると話は変わってくるのだ。


夏になると私は深夜に蚊と戦う。
奴らは音も立てず忍び寄るくせに、耳元で壮大な羽の音を鳴らしていくのだ。
刺された後は腫れ、痒みを帯びるのだ。
この音は私の安眠の終わりを差す。
安心な寝室は危険な戦場と化すのである。
このような時、命は平等などと言っていられない。
蚊と話し合えれば良いが、奴らも命懸けなのである。
私も眠れなければ明日の生活にかかわる。
私の目は血眼になり、この身果てようとも戦う覚悟なのである。
蚊取り線香など意味はなく、いつの間にか現れ消えていく様は忍者と相違ない。
私は蚊ではなく忍者と戦っているのだ。
そう思うと気が引き締まるのである。

このように、命は平等であると述べるには私たちはいささか傲慢なのである。
自分の身が危うければ、前提を覆すことも厭わなくなる。
私の手で殺めてしまった命もある。
本当に済まないと思うが、私の身を守るためにはしようがないこともある。
もう少し寛大でいたいのだが、そうも言っていられないのだ。
世知辛い世の中である。

2/22/2024, 12:52:01 PM

【太陽のような】

私が小中一緒だったあの子にはこの言葉が似合う。
いつも明るく、活発だった女の子である。
ポジティブでつらいことなどないといったようなものであった。

私が嫌なことがあり、ため息をついたときのこと。
「ため息ついたら幸せが逃げちゃうよ!」
などと私を励ましているのかよく分からないことを言ったりもした。
クラスの皆にも明るくフレンドリーであった。
嫌味や悪口を言うこともなく、いつも笑顔であった。
特段嫌な気持ちになったことはない。
むしろそんな彼女は皆から好かれていたように思う。
応援団や班長などもやっていた気がする。
根っからの太陽属ってやつである。

こんな子に出会う度、私は疑問に思う。
太陽のような人は、曇ったり雨になったりしないのだろうかと。
私のような人間は、曇って表情を読ませないようにするものである。
太陽は困ったり大変だったりしても太陽であるのだろうか。
私は彼女の曇った姿を知らない。
それも踏まえて、太陽のような人はすごいと私は思うのだ。
なりすましの太陽のような子とは違い、この子は本物であったのだ。


彼女とは高校が違ったので、それから先のことは知らない。
あの当時太陽のようだった少女は、今でも太陽のような輝きを放っているのだろうか。
彼女の周りには笑顔が咲いているように思う。
なにしろ名前も「あかりちゃん」であったからだ。
照らすには申し分ない名前である。
私の名前が「くもりちゃん」でなくてホッとする曇りの今日この頃である。

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