【誰もがみんな】
子どもの頃は誰もがみんな幸せに生きていると思っていた。
身近であれば親であり、友だちであり、先生である。
しかし日々を重ねていくと、「あれ?そんなことないのか」と思うようになる。
まず私。
給食で嫌いな食べ物が出た。あぁ不幸である。
なおかつ残してはいけないというルールが適用され、鼻をつまみながら完食した。
いつ同じ献立になるかわからない恐怖に怯えるのである。
次は親。
私と同じ時間に家を出て、帰るのは私が風呂時であった。疲れきった表情の中、残り少ない自由な時間を浪費していた。
次は友だち。
上級生とケンカをし、痛手を負っていた。しかも先生からこっぴどく叱られるのであった。
最後は先生。
私たちのような生意気な子どもたちを相手に、日夜奮闘していた。
変なタイミングで怒ったり、理不尽な言動は今にして思えばストレスで堪らなかったのかもしれないのだ。
私は一側面でしか皆のことを知らない。
一面だけを見て「幸せではないのかな?」と思っている。
そうはいっても、別の面から見れば幸せであった瞬間はあったのだろう。
私だって好きなものが給食に出ていれば、その日は幸せであった。
じゃんけんで勝って、休んだ人の分まで食えれば大したものである。
歳を重ねればどんどん良いことだけではなく、嫌なことも増えていく。
その比率を考えると、私が見ていた他人はごく一部であったのだなと再認識する。
生きている間ずっと不幸という者があるなら、幸福の価値を高く設定しすぎていると思うのだ。
古来から私たちは生きているだけで幸福という時代があり、何事もなく生存し続けている瞬間にこそ幸福は芽生えているはずである。
怪しい宗教のような発言をしたが、不幸なときはそんな戯言を言えないのである。
だが今の私は子どもの頃よりも力を持ち、給食の献立などに縛られず、自分の食事など思うがままなのだ。
不幸なときの献立は、私の好きなカレーである。どうだ。
味覚は子どもの頃からまるで成長していない。
【花束】
私は花束を貰ったことはない。
思いの丈を込めた花束を私に込めて貰える気配はない。
花は好きでもないが嫌いでもない。
よくよく思い返してみても、花は綺麗だという感想以外大して思い入れはなかった。
つまらない人間である。
こんなやつに花束を渡す人がいないのは当然であろう。
逆に花束を渡したことは何回かある。
どんな花を渡すかではなく、花束を渡すこと自体に意味があるのだ。
花屋の方はどの店に行ってもセンスがよく、ざっくばらんなイメージで素敵な花束を仕上げてくれる。
無から有を作り出す錬金術師のようである。
私の姿もこんな風に素敵に仕上げてくれれば良いのにと思うが、そういえば私は花ではなかった。
私もいつか花束を受け取ってみたい。
いつになるかはわからない。
葬儀には花は付き物である。
そう考えると死んだら大概貰えるのである。
ならばそう焦らなくても良い。いつかは貰えるのである。
誰かのために花束を買うのは良いことだ。
食べるも飲むもできない。
貰って嬉しいが、永くは持たない。
最後には消えてなくなってしまうが、花束に込められた思いは消えてなくなりはしない。
そんな情緒に感動できる人間でありたい。
私は食べ物なんかを貰えたらもっと嬉しいが。
【スマイル】
仏頂面の人を尊敬する。
私はこれは作り笑いだなと自分でも思うほど、つまらないものに笑みを浮かべられない。
素直だとすぐこれである。
変わらぬ表情の人が笑えば、あの人は実は好い人と認識される。
私にそんな度胸はない。
職業柄周りの目を気にする。
良い印象を与えるため笑顔は必須であろう。
仏頂面は会うだけでも嫌である。
口調も悪く、人を見下しているように思う。
よくここまで生きてこれたなと思わずにはいられない。
私は作り笑いがなければいけない人生を歩んでいるのかと思うと、仏頂面の奴らのほうが真っ当な人生を歩んでいるのだ。
相手の表情から感情が読めないと不安になる。
私は心の駆け引きが苦手である。
面倒なので、仏頂面はこちらから願い下げなのだ。
対して笑顔が素敵な人は良い。買い物や出先でも気持ちがよくなるほどだ。
汚れた心を浄化する作用がある。笑顔には異様なまでの洗浄力があるのだ。
だから私はできる限り笑顔でいようと思っている。
私は作り笑いは下手だが、おそらく相手には伝わっていない。
気づくような繊細な人には、そもそも作り笑いをしていないからである。
自然と同じ空気を感じ、自然な笑顔となっているのである。
だから端から見て無理して作り笑いをしている同類を見ると、「一緒だね。お疲れさま。」などと心のなかでコーヒーを渡している。
いつも素敵なスマイルをしている人は、仏頂面よりも更に人生を楽しんでいる。
私もいつかはそうなりたいのであるが、そうなったらコーヒーを渡すこともできないので、今のままでも良いかという気になる。
本当のスマイルが出来るなら、下手な作り笑いも無駄ではないのだ。
これがわかっているならば、私はまあ大丈夫であろう。
【どこにも書けないこと】
私はどちらかと言うと寡黙で大人しい。
初対面だと礼儀正しい好印象を与えるようだ。
いつか友人に言われた言葉を気にかける。
「○○ってなに考えてるかわからない。」
これには驚いた。
なぜなら私は何も考えてないからである。
ぽけーっとしている顔は、何か考えているように見えるらしいのだ。
俳優にでもなれば案外良い演技をするのではなかろうか。
聞くと、精悍な顔立ちらしく頭がよく見えるらしいのだ。
私自身はのび太の顔をしていると思っていたが、他人にはゴルゴ13に見られているようであったのだ。
これには利点もあるが、困ることもある。
実際頭が悪いわけではないが、頭が良くもない。
ハードルを上げられた挙げ句残念がられるというコンボである。
そういえば他人の話も、どうでも良い相手ならまともに聞いていない。
「帰ったら何しよう。」などと呑気な考えに耽る。
大体マシンガンのように話す相手に面白い人間は少ない。
自己完結するのならば穴にでも話しかけておけば良いものを。
だから私は同じような大人しい人が好きだ。
大人しい人の方が面白い人が多いからだ。
私がどこにも書けないことはこの程度である。
本当はもっと深刻なこともあるが、ここではなるべく大したこともないことを書こうと思っている。
ああ、あとはいつもこんな駄文を読んでくれる人がいるということである。
大切な人生の時間を使ってまで読むものではないのであるが。
自分が書きたいから書いているが、読まれていると思うと少々嬉しい。
名の知らぬあなた。いつもありがとう。
などと媚びを売ってみる。
まあ気楽に読んでもらえればこれほど嬉しいことはない。
【時計の針】
“クロノスタシスって知ってる?
知らないと君が言う。
時計の針が止まって見える現象のことだよ。”
きのこ帝国の『クロノスタシス』という曲の歌詞である。
私はこの曲とバンドを大学の時に知った。
今は活動休止中だが、おそらく復活することはないのではないかと察する。
所謂サブカル好きが食いつくようなバンドでもあろう。
『花束みたいな恋をした』でもこの楽曲が使用され、サブカルの一部として消費されていた。
私が知った頃にはバンドは活動休止となっており、もちろんライブなどには行ったことはない。
私のなかで知らぬ間に時計の針が止まっているバンドであり、再び動き出す瞬間を見ることができないかもしれないバンドでもある。
私はちゃんと楽曲を聞き、いいなと思ったから聞いている。
ファッションで聞いている人間とは違うということを記しておきたい。
このように、待っていても時計の針が動かないことはある。逆もまた然りである。
クロノスタシスのように止まって見えるわけではなく、止まっているのだ。
私が止めたい時間は止まらず、動かしたい時間は動かない。
嫌なことが翌日に控えているときなどは顕著である。
「あぁ~とっとと嫌なことが終わった後の時間に行かせてくれ。」
と言えど誰も助けてはくれない。私の力で何とかせねばならぬ。
こうして嫌な思いを持ちながら越す夜を、永遠に閉じ込めておきたいがそうはいかない。
太陽はそ知らぬ顔をして、私を出迎える。
明日は決戦である。
何とかなるだろうの気持ちで何とかするのだ。
…誰か代わってくれ。