月風穂

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【誰もがみんな】

子どもの頃は誰もがみんな幸せに生きていると思っていた。
身近であれば親であり、友だちであり、先生である。
しかし日々を重ねていくと、「あれ?そんなことないのか」と思うようになる。

まず私。
給食で嫌いな食べ物が出た。あぁ不幸である。
なおかつ残してはいけないというルールが適用され、鼻をつまみながら完食した。
いつ同じ献立になるかわからない恐怖に怯えるのである。
次は親。
私と同じ時間に家を出て、帰るのは私が風呂時であった。疲れきった表情の中、残り少ない自由な時間を浪費していた。
次は友だち。
上級生とケンカをし、痛手を負っていた。しかも先生からこっぴどく叱られるのであった。
最後は先生。
私たちのような生意気な子どもたちを相手に、日夜奮闘していた。
変なタイミングで怒ったり、理不尽な言動は今にして思えばストレスで堪らなかったのかもしれないのだ。

私は一側面でしか皆のことを知らない。
一面だけを見て「幸せではないのかな?」と思っている。
そうはいっても、別の面から見れば幸せであった瞬間はあったのだろう。
私だって好きなものが給食に出ていれば、その日は幸せであった。
じゃんけんで勝って、休んだ人の分まで食えれば大したものである。


歳を重ねればどんどん良いことだけではなく、嫌なことも増えていく。
その比率を考えると、私が見ていた他人はごく一部であったのだなと再認識する。
生きている間ずっと不幸という者があるなら、幸福の価値を高く設定しすぎていると思うのだ。
古来から私たちは生きているだけで幸福という時代があり、何事もなく生存し続けている瞬間にこそ幸福は芽生えているはずである。

怪しい宗教のような発言をしたが、不幸なときはそんな戯言を言えないのである。
だが今の私は子どもの頃よりも力を持ち、給食の献立などに縛られず、自分の食事など思うがままなのだ。
不幸なときの献立は、私の好きなカレーである。どうだ。
味覚は子どもの頃からまるで成長していない。

2/10/2024, 12:10:10 PM