【溢れる気持ち】
熱い。
熱気に包まれた球場の中で私は冷たかった。
いや、私はビールではないし死体でもない。
熱狂する周囲との違和感を感じつつ、得点した好きな球団へのエールを心の中で送るのだ。
私はこのように熱い溢れる気持ちを表に出せない。
表は温かみを感じさせるそうだが、中身はクールである。私は冷蔵庫なのだ。
最近の冷蔵庫のほうが私よりも賢いようである。
ライブなんかでもそうだが、周りが嬉しそうに声援を送ったり涙を流す姿を見ると思う。
私はそこまでではない、と。
あなたたちが人生をかけて好きなものを、私はちょい食いをしているだけなのだと。
何かに人生を助けられたとか、そんなこと言えない。そこまでではない。
この空間にいてはいけないと体内からアラームが発信され、クールモードを発動させる。
人間冷蔵庫の完成である。
本当にこれには困っている。
本当は好きなのだが、周りがそれ以上だと引いてしまうのだ。
変なところで客観性を身に付けてしまったのがこの様である。
心から溢れる気持ちを放ちたいが、隣には知り合いがいる。そうはいかない。
私には解放の試練が足りていないことは明白である。
いや、ちょっと待っていただきたい。
人前で解放するのが正というのは本当に正なのであろうか。
私はこの価値観に疑問を呈したい。
私が好きという気持ちは変わらない。
ならば良いではないか。
騒ぐやつは騒いでおけ。
私は高尚にこっそりと騒いでいるのだ。
心のなかでプラカードをかかげ、激しく声を枯らしている。
終了後にはうっかり出口を間違え、忘れ物をするくらいに熱狂しているのだ。
熱く燃えた私の心に嘘偽りはない。
私の歩いた道筋は炎のように燃えているであろう。
実は私は熱い人間なのだ。
今日から私は冷蔵庫ではなく電子レンジである。
あなたの周りでそんな人がいれば、それは私である。
つまらなさそうだが、心は燃えているのだぞ。
【Kiss】
私は映画が好きだ。
わりとどんな映画も観ていると自負している。
流石に評論家どもには勝とうとなど思っていないが、そこら辺の野良映画好きよりも映画が好きと言ってもよい。
子どもの頃などは地上波でも映画が流れており、キスシーンは気まずい思いをした。
洋画ではよくキスシーンがあるのだ。
恋愛映画はまああって当たり前である。
とりわけ内容のないアクション映画などは無駄にラブシーンが多い。
ホラー映画も必須である。つまらないホラー映画には顕著だが、ホラーシーン以外で見せ場を作らねばならないという理由がある。
なんとか観客の興味を惹くためという配慮があるのだ。
あとはヨーロッパ映画であろう。
日常生活でキスがよくあるようで、挨拶がてら軽いキスをするのは定番なのだ。
日本でそんなことをすれば殴られる。
殴られるで済めばよいが、捕まる恐れもある。
ヨーロッパ人のふりをしても無駄である。
文化とは不思議なものだ。
ヨーロッパでもとりわけフランス、イタリア辺りではよく見るが、ドイツやポーランド辺りはどうだったか…。
ヨーロッパでも文化が異なるため、ここは注意しておきたい点である。
フランスといえば私のなかでは、エリック・ロメールの映画のような人たちが多いと勝手に思っている。
恋愛に奔放でいくつになっても恋愛を楽しむ。
自分に自信があり、勝手気儘な姿は羨ましく思える反面、一種のだらしなさも感じさせる。
自由奔放なので後々面倒なことに巻き込まれたりもしていくのだが。
フランス人の恋愛のカジュアルさを感じながらも、同じ空の下誰もが恋愛をしている。
そう考えると微笑ましく思えてくるのだ。
たったひとつのキスでも、色々な意味が含まれている。
そこを口で語るのは野暮ってもんである。
まあホラー映画のキスシーンに意味はないことがほとんどであるが…。
【1000年先も】
誰もかも1000年後には存在していないのだ。
地球だって1000年後にはないかもしれない。
今の私の悩みなど宇宙の塵も同然である。
落ち込んだりしたときに、
「お前はお前しかいないんだ。大切に思ってくれている人がいるんだから前向きに頑張れ!」
などと励まされることがある。
これは半分正解であり半分誤りである。
「お前はお前しかいない。」となぜ決めつけることができるのであろうか。
この人は1000年スパンで全人類ひとりひとりを観察でもしたのであろうか。
1000年である。全人類である。
私のような人間がなぜひとりもいないと断言できるのであろう。
私を激励してくれている気持ちは買うが、あまり確証のないことを発言してはいけない。
時代や人種が違っても、自分に似た人、というかそのままの人は存在していただろう。
たまたま私がこの時代に生まれ、育っているだけなのだ。
相手から見ても、「あ、あれ私やんけ。」とか「Oh,It's me!」などと少々喜ばしく思っているであろう。
言語や性別の違いはあったにしても、私は私だけではないと思う。
細かい特徴まで似ることはないだろうが、性格や考え方がそっくりならば、それは私そのものではないだろうか?
人間とは不思議なものである。
生まれ変わるならまた私だね。
と胸を張って言いたいが、どうせ生まれ変わるならもっと気の利いた私でありたい。
1000年先であれば、さすがにもっと気の利いた私となって生まれ変われるだろう。
その姿は人間ではないかもしれないが。
まあそれはそれで気楽であろう。
【勿忘草(わすれなぐさ)】
花に詳しい人は素敵である。
普段「あぁ、あの花言葉はね…。」などと、貴族のような会話をしている人を私は見たことがない。
ドラマなんかではよく見るのであるが。
散歩していると、そこら辺に生えている花の名前が気になる。
そりゃチューリップやバラなんかはわかる。
私を侮ってもらっては困る。
問題は私が知らないその他大勢である。
「あの花ってなんだっけ?見たことあるんだけどな。」
「うーん、私もわかんない。」
という脳を1ミリも使用しない会話を幾度となく繰り返している。
花の名前を書いたボードを見て、そういう名前なのか!と思ったのも束の間、三歩歩けば忘れる。
「あれ、なんだったっけな」と三歩戻って再確認する。しかし明日には忘れる。全くもって無駄な時間である。
勿忘草も名前は聞いたことがあるが、どんな姿形かわからない。
調べてみると見たことがあるようなないようなどっち付かずである。
花言葉は「私を忘れないで」とのことである。
何とロマンチックであろうか。
そうは言っても記憶力の悪い私は明日には忘れてしまうのである。困ったものだ。
だがこういった花の名前も花言葉も、誰かが考えたものであるのだ。
ならばそこまで懸命に覚えなくてもよいのではないか。
そう思う私は愚かだ。身も蓋もありゃしない。
【ブランコ】
ブランコとの思い出は幼少の頃ばかりだ。
私にとってブランコは公園のヒーローであった。
前後に動くだけの構造だが、不思議なことにブランコのファンは全国にいる。
かくいう私もファンのひとりだ。
私の実家の隣には少し大きい神社がある。
公民館のような母屋と相撲がとれる土俵があり、周りを取り囲むように木々がそびえたつ。
遊具はほぼないのだが、なぜかブランコだけがひっそりと存在している。
神社にブランコなどあるのだろうか?
私は今までに見たことがない。
佇まいはひっそりとしているがそこは公園のヒーロー。存在感はピカイチである。
大概ブランコは横に2つ並んでいるが、ここはなんと3つである。3つ。
奇数人で遊ぶことを念頭に置いたブランコとはなんとも珍しい。
だが神社という場所柄、昼間でもなかなか暗くひとりでは恐ろしい。
いつだったかひとりでブランコに乗っていると、隣のブランコが風もないのに揺れだした。
「一緒に遊びたいの?」などと話していた気もするが、私と遊ぶとはよっぽど暇な神様であろう。
何百年もこの神社を守っている神様は、どれだけの子どもと一緒に遊んでいたのだろう。
ブランコが3つあるのは私と友だち、神様があとひとつに一緒に乗るためなのかもしれない。
夕食の際こんな話を家族にしていた。
当時中学生の姉は、
「偶然揺れたんだよ、神様なんていないよ。」
などと現実的な話をしていた。
姉が無宗教者だったのである。
私は中学生は大人なんだなぁと思った。
と同時に、じゃあなぜ姉は毎年初詣に行っているのだろうとも思った。
中学生は複雑であるのだなぁとも思った。