【優しさ】
他人を優しいと評す人間は間抜けである。
私は幾度となく「優しい」と言われたことがあるが、「優しさ」の定義は何だろうか。
間抜けはその意味も知らず発言している。
私は優しいと直接相手に言う人は信用できない。
荘子曰く「面と向かって人を褒めたがる奴は、影に回ると悪口を言いたがる」だそうだ。
同感だ。いつの世もこのような人間がいる。
私も荘子側の人間であると思うと、位が10ほど上がった心地である。
大概「優しい」と言う人は相手のことを真剣にみていない。
どこが優しいかと詰問すれば口ごもるだろう。
特段相手に良いところがないから「優しい」という耳触りの良い言葉に逃げるのだ。愚かである。
何をもって優しさとするのか、具体性を伝えれば良いのだ。
誉めるところがないからといって「君には良いところがないね。バイバ-イ。」と言えば良いものでもない。
そんなことを言えばバイバイされるのはあんたの方だ。正直すぎるのも困ったものである。
私にとって優しさとは、私の心が喜ぶもの。
私が好きだと思えるものが優しさ。
私は私が優しさだと思えることをする。
私が優しければ、誰かも優しくなるかもしれない。
すべては私から始まると思えば、優しさの重要さは計り知れない。
誰かから受け取る優しさも私は好きだ。
心が一瞬にして晴れる感覚はこの時に訪れる。
私の優しさなど大したことはないが、意図しない人の優しさはなぜか心が喜ぶ。
荘子曰く「自ら其の適を適とす。」である。
【ミッドナイト】
嫌なことがあった日はミッドナイトを満喫する。
普段の私のミッドナイトは大概夢の中だ。
自慢ではないが私の夜は短い。
爺さん婆さんに勝つことはできないが、そこら辺の若者には確実に勝てる。
嫌なことがあったとき。
私は誰とも会いたくないし語りたくもない。
励ましの言葉など要らぬ。
お前に私の気持ちはわからない。
このときの私は殺人事件の犯人そのものである。
ひとりで物思いに耽り、絶望の縁までに自分を追い込む。
そのときだけ私は心を鬼にする。イメージはハートマン軍曹である。
このままの気持ちで明日を迎えたくない。
嫌なことを嫌なままで終わらせたくない。
わざとポジティブにすると、私の気持ちは空回りして意味がないのだ。
ここまで気持ちを沈めると、不思議なことにいつの間にかまぁよいという心地になる。
パアッと気が軽くなるのは、自分次第であるのだなと嫌なことに真摯に向かい合った私を讃える。
眠気に耐えきれず布団に沈み込むと、私は布団の寛容さに感動する。
何時の時も暖かく私を包み込む布団は、何物にも代えがたい親友そのものだ。
私の目標は今日から布団である。
そう思ったのも束の間、目覚める頃には夜更かしをした昨日を悔やむのである。
こうしたルーティーンはいつからだったか思い出せない。
私はこうして下らないミッドナイトを過ごしている。
嫌なことがあったときはさっさと寝るほうが良いのだが、いつ悔やんでもこの習慣を辞めることなどできない。
私の気持ちはこの時間によって救われているのかもしれない。
そう思うと辞めることはできない。
タバコ常習者と同じである。
と思うと途端につまらぬことをしているなという気にもなる。
【安心と不安】
私はいつも春が苦手であった。
「春はあけぼの」など流暢なことを言っている場合ではない。
中学生であったとき、毎年クラス替えがあった。
ああいった類いは、大概目立つ奴らがドラフト制で指名され、残った私のような雑魚は人数の少ないクラスに補充される。
数合わせで呼ばれるため、私たちにかけられた期待はないに等しい。捨て試合の合コンである。
さらに悲しいことに、仲良しな奴とは端と端のクラスに遠ざけられる。
目立つ奴らは仲良しでクラスに固まっているがどういったことだろうか。
ここまで痛めつけて何がしたい。大人はたちが悪い。
ヘドロのような担任とも出会い、見事な三重苦である。
また1からのスタートは本当につらい。
私は毎年この賭けに負けていた。
中学時代にいい思い出はほとんどない。
私が中学校で見つけた安心はないのだ。
私にとっての安心とは何だろうか。
私にとっての家族はそうなんだろうか?
いつでも帰ることができる場所だが、私のことを本当に大切に思ってくれているか不安になる。
ここである。不安はいつでも心を食らう。
信頼していたあの人も、すぐに掌を返すかもしれない。
私は中学時代にそうしていくつも涙を流してきた。
まるで今日のことのように胸を締め付ける。
やはり私が安心できるのはひとりのときだ。
誰もいないこの時間は、何を考えても何をしても私のすべてを受け止めてやろう。
私は私を信頼している。
いつも動くこの身が安心であれば、不安など敵ではない。
中学時代賭けに負け続けた私はこうして安心を見つけた。
いい思い出がなくとも、人は何らかの学びを得ることができる。
有名人であれば涙ぐましいエピソードだが、私は一般人である。何てことはない。
今は安心を金で買える世界である。
人の不安を煽るのも社会の役割だ。
私はそんなものにはなびかない。
私がいればそれだけで安心なのだ。
あなたもあなた自身が存在しているなら、それだけで安心となる。
そうすると段々世界も安心に包まれていく。
不安に呑み込まれてはいけない。
その先は闇しかないのだから。
【逆光】
私から見れば光は逆ではない。
対象物を主体として見たときに、逆光という言葉が浮かび上がる。
対象物からすれば私は直光である。
不思議な言葉だなぁと常々思うのだ。
主に写真を撮影するときに使われる言葉だ。
それ以外で使ったことはあっただろうか?
記憶にはない。私は忘れっぽいのだ。
写真というものがなければ、このような言葉もなかったのではないだろうか。
「そち、逆光だからちこうよれ。」
などと使われるはずはない。
逆光は片面が明るく照らされ、反対側は暗い様子である。
これは人間にも言えることだ。
誰しも明るい面、つまり良い面と
暗い面、つまり悪い面があるのだ。
私には悪いところしかないと嘆くのは間違いで、光の当て方を変えれば誰しも良いところがある。
どんな人間にもこの両面は存在している。
そりゃあ私もなれるものならピカピカの聖人君主でありたい。
なんの欠点もなく、誰もが憧れる人間に。
でもそれは太陽と同等で、数えきれない総数の中のたったひとつなのだ。
何よりそんな人間はたぶんつまらない。
ヘドロのような真っ黒な奴もいるが、そんな奴はゴミ同然なので無視するのが一番である。
何が言いたいかというと、大概のものは皆自分を蔑む必要はないということだ。
ヘドロ以外はな。
太陽が真上にくれば逆光はなくなるんだがね…。
上手いこと言おうと思うとすぐこれである。
【こんな夢を見た】
他人の夢の話ほどつまらないものはない。
だから私の夢もきっとつまらない。
違う夢の話をしよう。
私が子どもの頃の夢は漫画家であった。
周りの子たちはプロ野球選手、ケーキ屋さん、先生、花屋さんなど、いかにも子どもの夢という感じであった。
成長した彼らを知っている私にしてみれば、鼻で笑うレベルである。
私は漫画家だ。
周りに漫画家になりたい子はいなかった。
この学校にひとりしかいない夢を見ている私を、なんだか誇らしく思った。
『ドラえもん』を読み藤子・F・不二雄に憧れた。
まともな奴はのび太に憧れるものだ。
ドラえもんがいるだけで奴はなにもしていない。
すべての小学生の羨望のまなざしである。
私は違った。
こんなアイデアを持ち、話も面白い。
色んな作品を描いている。こんな人になりたい。
その夢は打ち砕かれる。
ウキウキで藤子・F・不二雄の伝記を読んだ私は驚愕した。
漫画家は超絶ブラックであった。
迫り来る締め切り。睨み顔の編集者。浮かばないアイデア。売れない作品。眠れないジレンマ。
天才でもここまで追い込まれるのだ。
なにもしていないのび太は、こんなに苦しんだ人から生まれたのだ。
のび太はぐーたらと何を呑気にしている。作者がいなければ貴様も危ういのだぞ。
そりゃドラえもんにすがりたくもなる。
私は漫画家の夢を諦めた。
小学5年生のときである。
卒業式のスピーチでは、仕方がないので漫画家になりたいと言い張っていたが、なりたくねぇよと心の底では思っていた。
大人は子どもに夢を見せたがる。
実際の大変さ、汚さは伝えることはない。
それが悪いとは言わない。
つらくても大変でも、なりたいと胸を張って言えるのならば、それは大きな夢だ。
私は早々と夢を諦めたが、諦めなければもっと苦しい現実があったのだと思う。
今の私は私でつまらない毎日を送るが、『ささやかな幸せ』という夢を見ていた将来の姿でもある。
誰もが偉くなる必要もないだろう。まあよい。