小学校までの登下校の道の途中に、まだ開拓されていない土地があり、そこに草木が覆い茂っていた。
薄暗い茂みの奥に、ある日僕らは惹き寄せられるように入って行った。
「秘密基地を作ろう」
小学生のお決まりのようなセリフを言い出したのはあいつの方だった。
僕らはダンボールを敷き、そのへんに転がっていた枝を集めて木々に立てかけ土台を作り、新聞紙を持ってきてその上にかけた。
暗闇の中にできた自分たちだけの空間。僕はわくわくした。
「他の奴らに教えちゃだめだぞ」
あいつは釘を指すように言った。
「わかってる」
僕は頷いた。二人でにやりと笑い合った。
次の日は僕は習い事があったから、終わってからまたここで待ち合わせようと約束をした。
翌日秘密基地にやってくると、あいつは先に到着していた。その様子が何やらおかしかった。
「すごいもん見つけちまった」
そう言って、基地の中からにやにやしながら手招きしている。
なんだろうと思いながらダンボールに腰を下ろすと、背後から破れて汚れた本を差し出してきた。
なんだ?
土で汚れていてよく見えない。人の写真が載った雑誌のようだった。きょとんとしている僕に、
「これ見ろよ」
と言って、あいつがページをめくる。
飛び込んできたのは、男の人と女の人の写真。二人とも裸で、男の人のあそこの上に女の人の顔があって、女の人のあそこの下に男の人の顔があった。
「わっ、何これ!」
僕は叫んだ。
「さっき来る途中で拾ったんだ。すげーだろ?」
あいつはその雑誌から目が離せない様子で言った。僕はどきどきしながら写真を見た。なんでこんな格好してるんだろう? よくわからない。よくわからないけど、なんか、すごい。
なんだかあそこのあたりが熱くなるような気がして、居た堪れなくなった。急に、あいつにそれを悟られないようにしなければという気持ちになった。
「僕、宿題忘れてた! ごめん!」
怪しまれないように適当に会話した後、僕は思い出したように立ち上がった。
「えっ今からするのかよ!?」
あいつは驚いたような声をあげたけど、僕は一刻も早くその場から立ち去りたかった。
僕は逃げるように去った。
秘密基地は、それからしばらくして降った雨で水浸しになり、僕らは自然とその土地にも寄り付かなくなった。
あいつは覚えているだろうか。
あの場所も、あの経験も、遠い日の淡い記憶ーーー二人だけの秘密だ。
『二人だけの秘密』
「優しくしないで」
少女漫画の中でしか聞いたことのないようなセリフ。
私の周りでそんなセリフを吐いた人に出会ったことがない。
みんな優しさに飢えている。
嘘や誤魔化しでもころっと騙されてしまうほどに、飢えているのだ。
好きな人に優しくされたい。
寂しさを埋め合わせたい。
傷ついた心や身体を癒したい。
いろんな理由で人は優しさを求める。
その優しさには、確かに力がある。たとえ取り繕った優しさでも。乾いたおしぼりを必死に搾り出したようなたった一滴の優しさでも。
今日も私は精一杯に寄り添う。
「あなたが喜んでくれるなら、私も嬉しい」
そして彼は言った。
「むりしなくていいよ」
驚いて彼を見ると、ふと視線を逸らされた。不機嫌な横顔。
全身で、もう優しくするな、と言っていた。
『優しくしないで』
その絵には、色とりどりの翼が描かれていた。
キャンパス一面に、翼を広げる鳥。赤に桃色、橙色に黄色、緑に紫に青色。虹色に輝く翼を持つ鳥が、海の上をたった一羽、孤独に、力強く羽ばたいていた。
私は圧倒された。なぜだか涙ぐみそうになるのを必死に堪えた。
絵の下に小さく添えられたプレートに、作者の名が表示されている。このプレートにわたしの苦手な彼女の名が載っていることは知っていた。
同じスタジオアート専攻の彼女。影が薄くて、いつも周りに合わせて無難なことを言う。誰かの顔色を伺って作ったような笑顔に、少し震える指先。周りはやさしくて良い子だというが、私は彼女が苦手だった。
ほらね、やっぱり。そうだと思ってた。彼女は彼女の世界を隠し持っている。それは、私には圧倒的に辿り着けない世界だ。
彼女の描いた世界はとてもカラフルだった。虹色の翼で、今にもどこか空の彼方へ飛び立ってしまいそう。追いかけたいのに、追いつきたいのに、追いつけるかもしれないという希望すら持たせてもらえない。
このまま飛んでいけばいいのに。作り笑顔を見ているよりずっといい。追いつけなくてもいい。
その虹色の翼で、飛んでいく姿が見たいのだと私ははじめて自覚した。
『カラフル』
知ってしまったら、もう元には戻れない。
僕らはリンゴを食べてしまった。
アダムが言う。君の全てが見たいんだ。
イヴが答える。それは無理だわ。恥ずかしいの。
僕らは恥を知ってしまった。
周囲から見た自分という、客観性を持ってしまった。
楽園に戻りたいか?
客観性のない、自我の強い世界だ。
それは、幸せな世界か。
楽園か。
『楽園』
風の強い日だった。
お骨が飛んでしまわないように急いで拾って小さな壺に詰めた。
シロのお骨は、その小さな骨壺の底しか埋めないほど小さく僅かなものだった。それでも、こんな小さな身体の骨をきれいに残すことは相当な技術が必要なはずで、出張火葬業者さんには感謝しても感謝し切れないほどだった。
シロの身体が骨になったら、私は悲しくてまた泣いてしまうのではないかと思っていた。けれど違った。ようやく病気から、身体から解放されて、シロは自由になったのだと感じた。
きれいなお骨にしてもらえてよかったね。
私は自然と心の中でつぶやいていた。この数日泣き腫らした心に、不思議と温もりが灯りはじめていた。
業者の方によくよくお礼をして、シロの骨壺を抱えて家に戻った。
「おかえり」
シロに言った。
靴を脱ごうと少し屈んだ時だった。服の上から何か砂のようなものがポロポロと床に落ちた。
えっ、なに?
屈んでじっと凝視する。
先ほど見たばかりのものとよく似ていた。白くて細かい砂のようなもの。
あっ! シロ!
シロだよね!? ごめん!
私は慌てた。溢れたものを拾い集めて、封をしてしまった骨壷の代わりに透明の小さな小瓶に入れる。
風の強い日だった。気付かないうちにシロの一部が私の服に降りかかっていたのだ。
全てのシロの一部を小瓶の中に収めて、ようやく私はホッと胸を撫で下ろした。
それを持って部屋にあがり、臨時の祭壇に置き、じっとその砂丘の砂のようなシロを眺める。
ホッとした途端に、思った。お骨にしてもらうためにはじめて私の元から数十分ほど離れたシロ。
『ただいま!』
風に乗って飛びかかってきたんだね。新しい姿になって。
帰ってきたんだね。この腕の中に。
悲しみの中で、ふふ、と少し微笑みが溢れた。
これまで守るべき存在だったシロが、急に頼もしい存在に思え始めていた。どこか近くにいて、私を見下ろしている。
それは私がはじめて経験した、火葬のーー弔いの温もりだった。
『風に乗って』