結城斗永

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10/25/2025, 3:39:20 PM

俺は揺れていた。
目の前にいる金持ちとホームレス、どちらを救うべきか。
だが、そんなのはどちらだっていい。俺が守りたいのはこの背中の白い翼だけだ。

天界ってのは想像以上に権威主義だ。皆が神になりたがる。そんな世界だから、人間にも秩序と優劣をつけたがる。
上の奴らは俺たち天使に、業務と銘打って地上のいざこざを処理するように命じる。
『どちらを救うべきか判断を下せ』
それがあいつらの求める答え。

どちらかを選ばなければ、俺は天使としての職務を剥奪される。翼は奪われ、地上へ送られる。
別に天使であることに執着はないが、この翼の美しさは何ものにも代えられない。この翼のために、俺は天使を続けているようなものだ。

『さぁ、決断せよ』
俺は天界の冷たい警告を耳の端で聞きながら、眼下でいがみ合う二人を眺めていた。 
理由は単純。路駐された若い男の高級車に、ホームレスの老人が石を投げたからだ。

――こんなことに俺の翼を賭けなきゃならないのか。
俺はため息を吐き、翼からもぎ取った羽根を小さく揺らす。時間が止まり、二人の記憶が流れ込む。

ホームレスの老人はかつて板金工を営んでいた。
業績の悪化で銀行からの融資も止まり、工場は倒産。
従業員の給料を払うために全財産を売り払い、自らは家なし文なしの生活に転落した。
彼にとって寝る場所は、命をつなぐための要だった。

一方、若い男は生まれた時から贅沢とは無縁だった。
父親を早くに亡くし、母親を支えるために一念発起で起業し、寝る間も惜しんで働いた。
彼にとって高級車はこれまでの努力の結晶だった。

黒塗りの高級車と見窄らしい暮らし。
それぞれが互いの憎悪の対象となり、互いを傷つけ合った結果だった。

見るんじゃなかった。
こんなのは判断を鈍らせる材料以外の何物でもない。
結局、天界が求める秩序と優劣なんてものは、この世界で何の役にも立ってないじゃないか。
俺は悩んだ末に持っていた羽根を二人の間にひらりと落とす。

どちらか一方を救済するなんて出来るわけがない。
『天界の秩序を乱すのか』
上からの声。クソくらえだ。
『翼を失うぞ』
知らねえよ。翼より美しいものがあるんだ。

俺の手を離れた羽根は虚空を舞い、睨み合う二人の間をすり抜ける。と同時に、互いが持っていた嫌悪感が羽根に吸い込まれていく。
羽根がゆっくりと段ボールの寝床に舞い降りるまで、二人の視線はじっとそれを追いかけていた。

「私が悪かった……」
先に言葉を発したのは老人の方だった。
「私が傷つけておいてなんだが、直させてほしい」
若い男は静かに頷く。
「俺の方こそ悪かった。ここがあんたたちの場所だって分かってて停めたんだ……」
老人が寝床の奥から見慣れない道具を取り出して、器用に車のへこみを直していく。

『お前は天使失格だ』
天界からの声に肩甲骨のあたりが熱を帯びる。傷口に血が集まっていく時のあの滾るような熱だ。
視界に入る翼の先はいつしか赤黒く変色していた。

「おっちゃん。その技術、もったいねえよ」
眼下では若い男が老人の作業を見ながら声を上げる。
「俺のダチんとこで働かないか?」
老人が作業の手を止めて顔を上げ、涙混じりに頷く。

全身を走る痛みに意識が朦朧とする。
だが、朽ちていく翼にもう未練はなかった。
こんな欺瞞に満ちた翼よりも、大地を踏みしめる彼らの足のほうが遥かに美しい。

人間として生きるのも悪くない。
聞くところによれば、天使の生まれ変わりには苦労が多く付きまとうらしい。俺に乗り越えられるだろうか。
いや、そんなことは生まれ変わってから考えよう。
どんな世界も天界よりは遥かにマシだ。

薄れゆく意識の中で、段ボールの寝床に揺れる羽根は、いつまでも美しい純白を残していた。

#揺れる羽根

10/24/2025, 8:41:31 PM

 夕暮れ時の河川敷、僕は手元の箱を大事に抱えて歩いていた。この箱の中身だけは決して誰にも見せてはいけない。僕という存在はもとより、見る者すべてを不幸にすると分かっているから。

 空はまるで僕の心のように、どす黒く分厚い雲に覆われ、街を流れる川は今朝の大雨で勢いを増していた。
 抱える箱に集中するあまり、足元が疎かになる。足が上がらず、小石に蹴躓く。箱が指先から離れ、土手を転げながらまっすぐ川へと落ちていく。
 焦りと不安から必死で駆け出した。だが足は思うように動かず、不規則なリズムを刻むばかり。荒れる川の流れは速く、箱へと伸ばす手は幾度と虚しく空を切る。

 少しでも箱に近づこうと川の中へと歩みを進める。冷たい水が靴の中へと入り込み、足を動かす度に重たい水がゴポゴポと音を立てる。
「おい、大丈夫か!」
 突如、背後から声が飛んできた。
 振り向くと、ひとりの男が土手の上から叫んでいた。男が心配そうに土手を駆け降りてくる。でも、あの箱には触れられたくない。
「大丈夫です。放っておいてください!」
「放っとけるかよ。大事なもんなんだろ?」
 その優しい声が、耳の奥でザラザラと音を立てる。
 ――何も分かってない。何も知らないくせに。

 僕の心の声とは裏腹に、男は迷うことなく川へと入ってきた。
「無理するな。俺が取ってやる」
 これ以上のお節介はやめてくれ。これは無理するとかそういう類のものじゃないんだ。
 やめてくれ。僕の荒れた心に土足で入り込むのは……。
「やめてくれ……」

 男は僕の制止も聞かず、流れてきた箱をすくい上げた。
「ほら、無事だったぞ!」
 高らかに声を上げる男の表情は、夕日の逆光に黒く陰って定かではない。素手で心臓を握られたような不快感に吐き気がする。
「それを返してください――」
 僕の震える小さな声は男の威勢に掻き消されていく。
「中身が無事か見てみよう」

 男の手が箱の蓋にかかる。
 ――いけない。
 善意はどこまでも残酷だ。
「やめろって言ってるだろ!」
 僕の口から、自分の声かと疑いたくなるほどの叫び声が飛び出した。
 けれど、男の手はすでに蓋の留め金を外していた。パチンと乾いた音がして、僕が守ってきた箱はあっけなく開いた。

 静寂……。

 箱の中を覗き込んだ彼は、濁流の中でしばらく黙り込んだ後で静かに箱を閉じた。
 男は眉間にしわを寄せ、見てはいけないものを見たような、恐怖と後悔の表情でこちらを見る。
 何も言わずに川から上がる彼の背中を見ながら、僕はそれ見たことか――という嘲笑と、彼の表情を曇らせてしまった罪悪感に苛まれる。

 僕は重たい水を掻き分けて河原に上がり、男が残していった箱を恐る恐る開ける。
 中に入っている小さな鏡には自分自身が映っていた。
 光のない陰鬱な目の奥で常に誰かを妬み、引きつった口元で劣等感を避けるように誰かを嘲笑う表情。
 この鏡が映すのは、その人の潜在意識が見せる『自らの最も醜いと感じているところ』。
 鏡像への嫌悪感がふつふつと湧き上がる。

 男も自身の醜い部分を見たはずだ。そこで彼は何を思ったのだろう。
 助けた結果がこれかと幻滅しただろうか。それともただただ行き場のない恐怖を感じただろうか。
 胸の奥が冷たくなる。彼の行動が善意だから余計に辛い。でもそれは土足で人の心に上がっていい理由にはならない。繊細なその領域に触れるときには、拒絶される可能性と、自分の醜さに向き合う覚悟がなければいけない。

 沈みゆく太陽に赤く染められながら、僕はしばらく動くことができなかった。荒れる川の音に静かに耳を傾ける。誰も悪くない。だからこそ行き場のない締まりの悪さが空間を支配する。
 心の中に流れた涙がひとしずく、箱の表面に染み込んでいく。そうしてこの箱にまたひとつ秘密が増えていく。

#秘密の箱

10/23/2025, 4:55:08 PM

 後輩と二人、営業回りの途中で街外れの定食屋に入る。
 席に着くと、頭上のテレビではバラエティ番組が流れていた。無人島生活をするタレントたちが、木の棒で火を起こそうと奮闘している。
 食券を買い終わった後輩が、席に着きながら言う。
「僕ならもっと効率よくやるけどなぁ」

 また始まった。
「大学時代しょっちゅう山に行ってたんで、僕、ああいうの得意なんです」
 もう何度目かの自慢話。彼は大学の登山サークル出身らしく、事あるごとにその時の経験を自慢気に披露する。
「へぇ、そりゃ頼もしいな」
 俺は社交辞令で返す。だが内心では、鼻につくやつだと思っていた。
 俺は三十歳、彼は二十四歳。
 仕事では俺が先輩だが、学歴も顔もスタイルも、どれをとっても俺より勝っている。
 高身長に爽やかな笑顔、女性社員からの人気も高い。もし彼が同期だったら、俺はきっと今以上に嫉妬に狂っていただろう。

「先輩は、ああいうの苦手そうですよね」
 味噌汁をすすりながら。彼が屈託のない笑顔で言う。
「火ぐらい、俺でも起こせるよ」
 意地を張ってそんなことを言ってみるが、実際にはあんな風に火を起こしたことはないし、キャンプレベルの火起こしですら自信がない。
「え、ほんとですか? 意外と難しいんすよ」
 完全にバカにされている。
「先輩、もし無人島行くなら、僕みたいなの連れて行った方がいいですよ」

 あまりに堂々とした言い方に、思わず吹き出しそうになる。
「は、何その自信」
「僕、こう見えて結構体力あるし、だいぶ役に立つと思うんすよ」
「俺、そんなに何もできないように見えるか?」
 少し冷たく笑って返すと、彼は目を丸くして手を振った。
「あっ、いや、そう言うんじゃなくて……」
 そして、素直な視線をこちらに見せる。
「僕は、先輩のためなら、何でもできますから」

 胸の奥で何かがトクンと波打った。
 その言葉があくまで社交辞令の延長にあることくらい、分かっている。けれど、なんだろう、この気持ちは。
「……お前なぁ」
 説明できない感情を振り払うように出た笑いは乾いていた。
「早く食べちゃえよ。次の商談あるんだから」
 俺の空になった食器と対照的に、後輩の皿にはトンカツがまだ三切れほど残っていた。
「先輩、食べるのマジで早いですよね」
「時間配分は営業の基本だぞ」
「勉強になります」
 後輩がトンカツ一切れに白飯を頬張る。その姿が愛らしく見えた。
 テレビでは、タレントがお助けアイテムとやらを使って火を起こし歓声を上げている。
 その姿を見てふと考える。もし本当にひとりで無人島に取り残されたら、俺は生き延びられる自信はない。でも、もしこいつがそばにいたら、俺は自分を強く持てるような気もする。
 彼は自分に対して正直でいるだけだ。そんな彼の姿に劣等感を感じてしまうのは、自信のなさからか。彼の明るさと無邪気な自信を前に、改めて自分を見つめ直す。

「ごちそうさま」
 食堂のおばちゃんに声をかけて外に出る。
 昼の陽射しが少し傾き、街の空気が眩しい。
 後輩が、軽くストレッチをしながら言う。
「さぁ、午後もいっちょ頑張りますか」
 俺がランチ終わりに口癖のように言っている言葉だった。
「おい、俺の台詞とっただろ」
「言ってみたかったんです」
 そう言って笑っている彼の顔を見て、俺も思わず吹き出す。

 店の窓ガラスを鏡がわりにネクタイと髪型を整える。
「次の商談、商品の説明はお前に任せるから」
「うわぁ、マジで緊張する……。でもずっと先輩見てきたんで、やれると思います」
 自慢話ばかりで、どこか生意気だけど、こういうところは真っ直ぐで愛おしい。
「いっちょ頑張りますか」
「はい、先輩!」
 言ってみれば人生は毎日がサバイバルだ。そんな時に必要なのは、道具でも知恵でもなくて、結局自分への自信とそれを確かにしてくれる存在なんだろう。
 そんなことを考えながら、後輩と二人、昼下がりの街に足を進めていく。

#無人島に行くならば

10/22/2025, 7:03:58 PM

 改札を抜けて駅前のロータリーへと出る。途端、夕暮れ時の開けた空間に、冷たく乾いた風が吹き抜けた。天気予報を信じてコートを引っ張り出してきたのは正解だった。襟で風を遮るようにしながら、歩道橋の階段を上がっていく。

 今日も、いつものように職場を出て、定時で家路を辿っている。
 特に嫌なことがあったわけじゃない。上司に怒鳴られたわけでも、同僚と揉めたわけでもない。ただ、毎日が無音のリピートのように続いている。
 新規の営業もなく、既存客への顔出しがルーティンのように回る。毎日似たような世間話をして、同じような伝票を作成しては、コピー機のように吐き出すだけ。
 歩道橋の真ん中まで来たところで、思わず口から出た深いため息が、秋の風に乗ってロータリーに広がっていく。まるで空気の中に自分の存在が薄まっていくように。

 ——これでいいんだろうか。
 
 平穏な社会生活ができているのに、そんな疑問が頭をよぎる。新卒でいまの会社に入社して三年目。仕事内容も大体把握できるようになり、力の抜き方も分かってきた。不具合の出ない程度に仕事をこなして、自分の時間も作れるようになってきた。

 職場の人間関係も良好で、別に嫌いな上司がいるわけでもない。部下はまだいないし、気を使うような相手もいない。それっぽい会話で繫がる林檎の皮みたいな薄っぺらい関係。職場の人間関係なんてそれくらいがちょうどいい。

 だけどな……と思う。

 歩道橋の柵に寄りかかって、ビルの合間に沈んでいく夕日を眺める。
 遠くで聞こえる信号機の音をかき消すように、高架を電車が通過していく。再び乾いた風が吹き、髪をかすかに揺らす。

 思えば、入社したての頃は、いまと全く違うため息をついていた。毎日覚えることが多すぎて、頭もパンク寸前。毎日どっと疲れては、いつもここで自分の非力を実感した。
 あの頃の方が、生きている心地がしていたように思う。今の僕は、果たして生きているんだろうか。そんな心の呟きに応えるように、昔の自分の声が頭の奥で響く。
 
 ――楽になったんだから、いいじゃないか。
 
 少し呆れたような、でもどこか誇らしげな声。
 あの頃の自分は、今の僕のようになりたかったんだろうか。それはそうか。毎日仕事で疲弊するよりはできるだけ楽な方がいい。平穏が一番だ。
 言い訳が虚しく秋の空に溶けていく。

 ふと、ロータリーでバスを待つ列の中に、読書をしている人影を見つける。
 そう言えば最近本も読んでないな。
 大学時代に読む予定で買い込んだ本の山は、いまだに手つかずのまま本棚で眠っている。あの頃はそれでも授業とバイトの合間を縫って、月に数冊は読んでいた。忙しさで言えば、今とそれほど変わらないように思うが、この差はなんなのだろう。

 少しずつ暗くなっていく空に時間の流れを感じる。
 先ほどまで街を包んでいた夕日の暖色は薄れ、いつしか街灯がともった街は青白い色に変わりつつあった。秋の夕暮れはとても早く過ぎていく。
 そうか――。
 僕は鞄をあさり、奥の方に追いやられた読みかけの小説を引っ張り出す。
 
 ルーティン通りに過ぎていく日々の中で、空いた時間でさえ無気力のルーティンに成り下がっていたのだ。何をするわけでもなく、ぼんやりと過ぎていく時間、ただただSNSのスクロールとショート動画に消えていく時間。
 力の抜き方を覚えて時間は作れたはずなのに、いまのように時間の流れを感じられるほどの心の余裕がなかったのだ。
 
 歩道橋に寄りかかったまま、取り出した本の表紙を手のひらでなぞり、その感触を確かめる。
 帰る前に少しこの本を読んでいこう。
 秋の風が気づかせてくれた心の余裕を胸に抱きながら、僕はいつもなら家路に向かう足を、駅前のカフェへと踏み出した。

#秋風

10/21/2025, 4:04:30 PM

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体および歴史的背景は一切事実とは関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 『虫の知らせ』という慣用句は、現代においても一般的に使用される感覚表現の一つである。
 辞書的定義では『何か事が起こりそうだと前もって感じること』(大辞泉より)とされるが、これはあくまで近代的な心理学的解釈に過ぎない。
 筆者は、この現象が単なる主観的感情ではなく、古代に実在した昆虫型情報伝達生命体(以下、報風虫)による量子共鳴型通信現象の名残であると仮定し、その証拠を風文記および関連史料に基づいて検証した。

 今から約四千年前に記された古文書『風文記』には、「王、虫の知らせたるところを風の震えに依って悟る」との記述が見える。
 この記述は単なる比喩ではなく、明確な通信行為を指している可能性が高い。
 
 同じく四千年前の地層から発掘された昆虫型生命体の化石を解析した結果、情報伝達に適した身体構造を複数箇所確認することができた。
 体表面には極微細な導電繊毛が存在し、外部振動を圧電変換し、情報を量子波として風流中に放出していたと考えられる。
 この際、虫の神経系は電気信号に変換された『思念』を量子波と同時発信することで、風そのものを媒体とする生体通信ネットワークが形成されていたと推測される。

 また、新訳版風文記(訳者不明)には、次のような逸話が残っている。
 王の命により隣国の城に潜入し、敵軍の進軍計画を探知した一匹の報風虫が、帰還の途中で命を落とす。その瞬間、王は夢の中で「敵来たる」と言う風の声を聞いたという。
 ここに記された「虫、多く死兆を立つれど、なかなか死せず」という一文は、明らかに『死亡フラグ』の連続的発現を意味する。虫は最終的に使命半ばで息絶えるまで、幾度も危険を予感されていたのである。
 この逸話が後の物語文学における「予感」「死亡予兆」の概念的基盤を形成したことは、文化史的にも極めて重要である。
 
 では、なぜ現代人は報風虫の存在を忘れたのか。
 筆者の仮説によれば、それは「失われた」のではなく「遺伝子レベルで自然化された」と考えるのが妥当である。
 
 今から約三千年前に記された宗教文献『風音抄』には、「虫と風の交わりは神域なり、人の触るるを禁ず」との戒律が確認できる。これにより風伝通信技術が宗教的禁忌として封印されたことがわかる。
 結果として、報風虫の存在は神話化し、科学技術史から完全に抹消された。しかし宗教的世界観はその後も後世にわたって人々の記憶の中に継承され続けたと考えられる。

 興味深いのは、報風虫の神経構造が人類の感覚遺伝子に部分的に組み込まれている点である。すなわち、現代人が感じる「第六感」や「胸騒ぎ」は、報風虫の風伝通信の残響波を無意識に受信している状態と考えられる。
 実際、気象現象として突風発生前に観測される微弱音波は、報風虫の化石からシミュレーション解析した共鳴周波数と一致する。

 すなわち人類は報風虫を忘れたのではなく、継承によって自然化し、遺伝子レベルにまで昇華したのである。
 慣用句として用いられる『虫の知らせ』とは、風と情報の融合体である彼らが、人間の内部へ移行した結果に他ならない。

 以上の検証により、「虫の知らせ」は偶発的直感ではなく、古代に存在した報風虫による風伝通信現象の名残であることが明らかとなった。

 そして、風文記の消失は単なる歴史的事故ではなく、意図された自己封印であった。報風虫は死をもって風と同化し、情報生命として今も地球大気を循環している。我々はそれを遺伝子レベルで察知し、感情へと落とし込むのである。

 いまこの論文を書きながら、理由のない胸騒ぎを覚えている。遺伝子に刻まれた報風虫の記憶が、再び風を介して何かを知らせようとしている。
 私はとてつもなく大きな禁忌を侵してしまったのかもしれない。

#予感

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