俺は揺れていた。
目の前にいる金持ちとホームレス、どちらを救うべきか。
だが、そんなのはどちらだっていい。俺が守りたいのはこの背中の白い翼だけだ。
天界ってのは想像以上に権威主義だ。皆が神になりたがる。そんな世界だから、人間にも秩序と優劣をつけたがる。
上の奴らは俺たち天使に、業務と銘打って地上のいざこざを処理するように命じる。
『どちらを救うべきか判断を下せ』
それがあいつらの求める答え。
どちらかを選ばなければ、俺は天使としての職務を剥奪される。翼は奪われ、地上へ送られる。
別に天使であることに執着はないが、この翼の美しさは何ものにも代えられない。この翼のために、俺は天使を続けているようなものだ。
『さぁ、決断せよ』
俺は天界の冷たい警告を耳の端で聞きながら、眼下でいがみ合う二人を眺めていた。
理由は単純。路駐された若い男の高級車に、ホームレスの老人が石を投げたからだ。
――こんなことに俺の翼を賭けなきゃならないのか。
俺はため息を吐き、翼からもぎ取った羽根を小さく揺らす。時間が止まり、二人の記憶が流れ込む。
ホームレスの老人はかつて板金工を営んでいた。
業績の悪化で銀行からの融資も止まり、工場は倒産。
従業員の給料を払うために全財産を売り払い、自らは家なし文なしの生活に転落した。
彼にとって寝る場所は、命をつなぐための要だった。
一方、若い男は生まれた時から贅沢とは無縁だった。
父親を早くに亡くし、母親を支えるために一念発起で起業し、寝る間も惜しんで働いた。
彼にとって高級車はこれまでの努力の結晶だった。
黒塗りの高級車と見窄らしい暮らし。
それぞれが互いの憎悪の対象となり、互いを傷つけ合った結果だった。
見るんじゃなかった。
こんなのは判断を鈍らせる材料以外の何物でもない。
結局、天界が求める秩序と優劣なんてものは、この世界で何の役にも立ってないじゃないか。
俺は悩んだ末に持っていた羽根を二人の間にひらりと落とす。
どちらか一方を救済するなんて出来るわけがない。
『天界の秩序を乱すのか』
上からの声。クソくらえだ。
『翼を失うぞ』
知らねえよ。翼より美しいものがあるんだ。
俺の手を離れた羽根は虚空を舞い、睨み合う二人の間をすり抜ける。と同時に、互いが持っていた嫌悪感が羽根に吸い込まれていく。
羽根がゆっくりと段ボールの寝床に舞い降りるまで、二人の視線はじっとそれを追いかけていた。
「私が悪かった……」
先に言葉を発したのは老人の方だった。
「私が傷つけておいてなんだが、直させてほしい」
若い男は静かに頷く。
「俺の方こそ悪かった。ここがあんたたちの場所だって分かってて停めたんだ……」
老人が寝床の奥から見慣れない道具を取り出して、器用に車のへこみを直していく。
『お前は天使失格だ』
天界からの声に肩甲骨のあたりが熱を帯びる。傷口に血が集まっていく時のあの滾るような熱だ。
視界に入る翼の先はいつしか赤黒く変色していた。
「おっちゃん。その技術、もったいねえよ」
眼下では若い男が老人の作業を見ながら声を上げる。
「俺のダチんとこで働かないか?」
老人が作業の手を止めて顔を上げ、涙混じりに頷く。
全身を走る痛みに意識が朦朧とする。
だが、朽ちていく翼にもう未練はなかった。
こんな欺瞞に満ちた翼よりも、大地を踏みしめる彼らの足のほうが遥かに美しい。
人間として生きるのも悪くない。
聞くところによれば、天使の生まれ変わりには苦労が多く付きまとうらしい。俺に乗り越えられるだろうか。
いや、そんなことは生まれ変わってから考えよう。
どんな世界も天界よりは遥かにマシだ。
薄れゆく意識の中で、段ボールの寝床に揺れる羽根は、いつまでも美しい純白を残していた。
#揺れる羽根
10/25/2025, 3:39:20 PM