夕暮れ時の河川敷、僕は手元の箱を大事に抱えて歩いていた。この箱の中身だけは決して誰にも見せてはいけない。僕という存在はもとより、見る者すべてを不幸にすると分かっているから。
空はまるで僕の心のように、どす黒く分厚い雲に覆われ、街を流れる川は今朝の大雨で勢いを増していた。
抱える箱に集中するあまり、足元が疎かになる。足が上がらず、小石に蹴躓く。箱が指先から離れ、土手を転げながらまっすぐ川へと落ちていく。
焦りと不安から必死で駆け出した。だが足は思うように動かず、不規則なリズムを刻むばかり。荒れる川の流れは速く、箱へと伸ばす手は幾度と虚しく空を切る。
少しでも箱に近づこうと川の中へと歩みを進める。冷たい水が靴の中へと入り込み、足を動かす度に重たい水がゴポゴポと音を立てる。
「おい、大丈夫か!」
突如、背後から声が飛んできた。
振り向くと、ひとりの男が土手の上から叫んでいた。男が心配そうに土手を駆け降りてくる。でも、あの箱には触れられたくない。
「大丈夫です。放っておいてください!」
「放っとけるかよ。大事なもんなんだろ?」
その優しい声が、耳の奥でザラザラと音を立てる。
――何も分かってない。何も知らないくせに。
僕の心の声とは裏腹に、男は迷うことなく川へと入ってきた。
「無理するな。俺が取ってやる」
これ以上のお節介はやめてくれ。これは無理するとかそういう類のものじゃないんだ。
やめてくれ。僕の荒れた心に土足で入り込むのは……。
「やめてくれ……」
男は僕の制止も聞かず、流れてきた箱をすくい上げた。
「ほら、無事だったぞ!」
高らかに声を上げる男の表情は、夕日の逆光に黒く陰って定かではない。素手で心臓を握られたような不快感に吐き気がする。
「それを返してください――」
僕の震える小さな声は男の威勢に掻き消されていく。
「中身が無事か見てみよう」
男の手が箱の蓋にかかる。
――いけない。
善意はどこまでも残酷だ。
「やめろって言ってるだろ!」
僕の口から、自分の声かと疑いたくなるほどの叫び声が飛び出した。
けれど、男の手はすでに蓋の留め金を外していた。パチンと乾いた音がして、僕が守ってきた箱はあっけなく開いた。
静寂……。
箱の中を覗き込んだ彼は、濁流の中でしばらく黙り込んだ後で静かに箱を閉じた。
男は眉間にしわを寄せ、見てはいけないものを見たような、恐怖と後悔の表情でこちらを見る。
何も言わずに川から上がる彼の背中を見ながら、僕はそれ見たことか――という嘲笑と、彼の表情を曇らせてしまった罪悪感に苛まれる。
僕は重たい水を掻き分けて河原に上がり、男が残していった箱を恐る恐る開ける。
中に入っている小さな鏡には自分自身が映っていた。
光のない陰鬱な目の奥で常に誰かを妬み、引きつった口元で劣等感を避けるように誰かを嘲笑う表情。
この鏡が映すのは、その人の潜在意識が見せる『自らの最も醜いと感じているところ』。
鏡像への嫌悪感がふつふつと湧き上がる。
男も自身の醜い部分を見たはずだ。そこで彼は何を思ったのだろう。
助けた結果がこれかと幻滅しただろうか。それともただただ行き場のない恐怖を感じただろうか。
胸の奥が冷たくなる。彼の行動が善意だから余計に辛い。でもそれは土足で人の心に上がっていい理由にはならない。繊細なその領域に触れるときには、拒絶される可能性と、自分の醜さに向き合う覚悟がなければいけない。
沈みゆく太陽に赤く染められながら、僕はしばらく動くことができなかった。荒れる川の音に静かに耳を傾ける。誰も悪くない。だからこそ行き場のない締まりの悪さが空間を支配する。
心の中に流れた涙がひとしずく、箱の表面に染み込んでいく。そうしてこの箱にまたひとつ秘密が増えていく。
#秘密の箱
10/24/2025, 8:41:31 PM