家のドアの前で、鍵を出そうとする。ん? バックの定位置にない。あっと思う。訪ねた友人の家で、バックを落としたのを思い出した。その時、どこかへ転がったのかもしれない。友人は、泊まりがけで出かけるって言っていたから、もういないだろう。
そうだ、大家さんだ。一階の大家さんのところへ行き、ドアのベルを鳴らす。あれ? いない? 部屋の灯りはついている。ちょっと出掛けただけだろうか。
とりあえず、郵便受けがある横の棚に座って待つことにした。もし、大家さんが帰ってこなかったらどうしよう。どこかで泊まる? 悶々と考えていた。外から風が冷たく吹き込んでくる。
すると、塀の隙間から見慣れた上着がちらっと見えた。助かった! 「あれ、どうしたの?」。小さな袋をぶら下げた大家さんの姿を見ると、全身の力が抜ける気がした。
「たった一つの希望」
特に特徴がない服を着て、いつも笑みをたたえたような穏やかな顔をしていた。滅多に感情を乱すこともない。淡々という言葉がぴったりの人だった。まとう空気がいつも半透明な感じだった。
生きていくために必要最低限の欲を淡々とこなしている。そんなふうに見えていた。
会わなくなってしばらく経ったころ、今は別人のようだという。封印していた色々なことを解放したのだそうだ。人生の大きなイベントを、急いでこなしていっていた。ああ、あらゆる欲を解禁したんだと思った。きっとまとう空気も、はっきりとした確かな色になっているのだろう。
「欲望」
ニュース番組で流れてくる街の名に、思わず顔をあげる。今までその街の名前も知らなかった。行ったことのない遠くの街。君が行ったから、知ることができた。
街の様子が映る。どこにでもあるような日本の街並み。そこで歩く人たちがいる。思わず、いるはずないのにと思いながら、君の姿を探す。
その道端に水仙の花が咲いているのが見えた。遠い場所だと思っていたけれど、映像の世界は、すぐ近くにあるような気がする。
家の窓に目をやる。今までよりも明るい日差しが差し込んでいる。ふと、旅に出ようかと思う。あの街の春を見てみたくなった。
「遠くの街へ」
ポットのお湯をゆっくりと注いで、コーヒーをいれる。ミルクを入れて、いつもより丁寧にかき混ぜる。こぼれないように席まで運んだら、椅子に深く座って大きく息をつく。
熱いコーヒーをゆっくりと飲む。何ともいえない苦みが口に残る。机の上の汚れが気になった。ティッシュを手に取って拭く。積み重ねられた資料の山も、まっすぐに整える。ついでに、机周りの整理なんかもごそごそとしたりする。
「一段落したんですか?」と声をかけられる。そう見えるだろう。本当は、なかなかやる気になれないでいる。どうしようもなくぎりぎりに追い込まれるまで、逃げているのだ。
「現実逃避」
いつも行く大型書店で、あっと思う。本を手に佇む人が君によく似ていた。背恰好や、カバンを斜めに掛けているところ、そして、分厚い本を軽々と手にしているように見えるところなんか、そっくりだった。
よくこの書店で待ち合わせをした。お互い本を探すのに夢中になって、待ち合わせ時間が大幅に過ぎたこともあった。興味のある本は違うけれど、その話を聞くのも楽しみだった。
君がいなくなってからしばらくは、この書店に行けなくなった。あまりにも君の面影が残り過ぎていたから。この頃やっと、思い出さなくなっていたのだけど。君は今、何をしているのだろう。
「君は今」