特に特徴がない服を着て、いつも笑みをたたえたような穏やかな顔をしていた。滅多に感情を乱すこともない。淡々という言葉がぴったりの人だった。まとう空気がいつも半透明な感じだった。
生きていくために必要最低限の欲を淡々とこなしている。そんなふうに見えていた。
会わなくなってしばらく経ったころ、今は別人のようだという。封印していた色々なことを解放したのだそうだ。人生の大きなイベントを、急いでこなしていっていた。ああ、あらゆる欲を解禁したんだと思った。きっとまとう空気も、はっきりとした確かな色になっているのだろう。
「欲望」
ニュース番組で流れてくる街の名に、思わず顔をあげる。今までその街の名前も知らなかった。行ったことのない遠くの街。君が行ったから、知ることができた。
街の様子が映る。どこにでもあるような日本の街並み。そこで歩く人たちがいる。思わず、いるはずないのにと思いながら、君の姿を探す。
その道端に水仙の花が咲いているのが見えた。遠い場所だと思っていたけれど、映像の世界は、すぐ近くにあるような気がする。
家の窓に目をやる。今までよりも明るい日差しが差し込んでいる。ふと、旅に出ようかと思う。あの街の春を見てみたくなった。
「遠くの街へ」
ポットのお湯をゆっくりと注いで、コーヒーをいれる。ミルクを入れて、いつもより丁寧にかき混ぜる。こぼれないように席まで運んだら、椅子に深く座って大きく息をつく。
熱いコーヒーをゆっくりと飲む。何ともいえない苦みが口に残る。机の上の汚れが気になった。ティッシュを手に取って拭く。積み重ねられた資料の山も、まっすぐに整える。ついでに、机周りの整理なんかもごそごそとしたりする。
「一段落したんですか?」と声をかけられる。そう見えるだろう。本当は、なかなかやる気になれないでいる。どうしようもなくぎりぎりに追い込まれるまで、逃げているのだ。
「現実逃避」
いつも行く大型書店で、あっと思う。本を手に佇む人が君によく似ていた。背恰好や、カバンを斜めに掛けているところ、そして、分厚い本を軽々と手にしているように見えるところなんか、そっくりだった。
よくこの書店で待ち合わせをした。お互い本を探すのに夢中になって、待ち合わせ時間が大幅に過ぎたこともあった。興味のある本は違うけれど、その話を聞くのも楽しみだった。
君がいなくなってからしばらくは、この書店に行けなくなった。あまりにも君の面影が残り過ぎていたから。この頃やっと、思い出さなくなっていたのだけど。君は今、何をしているのだろう。
「君は今」
自分では感じたくない感情に覆われる。これはいけないと隅に追いやったり、見えてないフリしたりする。でも、そうすればするほど、その感情が大きくなって、どんよりと心を覆う。
そんな感情を受け入れるなんて、できない。そうすれば、その思いは救われるのだそうだ。自分の一部として認める。そんな自分でもよいと。ちっぽけなプライドが邪魔をしているのだろうか。
心の中が灰色に覆われている。あの、物憂げな空のように。どんよりした空にも、時々光の気配が見えている。ああ、今日のあの空のせいかもしれない。明るく晴れてきた時には、自分を受け入れられるかもしれない。
「物憂げな空」