ある時、家に小さな虫が飛んでいた。一瞬目の中のゴミか何かを見たのかなと思った。でもよく見ると虫で、飛び回っていた。
時々顔の周りにくるので鬱陶しい。壁に止まったところをティッシュでつかんだ。あまりに小さな虫だから、気付かずに踏んでしまうこともあったかもしれない。ふと、小さな小さな命がぷわんと空に登っていくのを思った。
今度は、クモがいるのに気付いた。小さなクモが時々歩いている。これは黙認することにした。すると、ある時すこし大きめのが出てきた。さすがに気になる。クリアファイルで、ちょんちょんとクモを玄関の方へ動かそうとする。警戒して縮こまるばかりで、なかなかうまくいかない。
そうこうしているうちに、ファイルに載ってきた。そのまま急いで扉を開けて外に出る。ファイルを降ると、ポンっと地面にのった。向こうに動き出すのを見て、急いで扉をしめた。
「小さな命」
若いころとは違って、誰かのことが好きとかそんなことで頭がいっぱいになることもない。だからといって、その頃もバラ色の楽しさばかりということもなく、なかなか大変なことだった。
でも、一生懸命生きていた。今も。ただ、愛するものがない日々は味気ない。何だかとても空虚だと思う時がある。そんなときは、大抵愛せるものを見失っている気がする。
何か愛するものがあれば、世界が輝いてみえる。何でもない景色が、キラキラと特別に見えてくる。そんな景色をずっと見ていきたい。
「Love you」
道に迷ったのだろうか。田んぼのあぜ道と、畑の脇をひたすら歩いている。この辺りのはずなのだけど、それらしきものは何にも見えない。
おまけに季節外れの暑さで、太陽がじりじりと照りつけてくる。真っ青な空と、遠くに連なる山が見えるばかりだ。
ふらふらと歩き続ける。やっと家や建物らしき
ものがポツポツと出てきた。道沿いを歩いていると、農産物を売る店があった。店先に日陰があったので、ふらっとそこで立ち止まった。
すると、中にいるおばあさんと目があった。椅子から立ち上がって、何度も手招きしている。行ってみると「顔色悪いね。大丈夫? 麦茶あるから少し休んだら」と言う。勧められるままに椅子に座った。
奥に麦茶サービスと書いてあるポットが置いてあった。麦茶を入れた小さな紙コップをもらう。コップは思いのほか、熱かった。「今の時期は温かいの入れてるの。今日は冷たいほうがいいくらいだね」。
ぼぉーっとしながら、温かい麦茶をゆっくりと飲んだ。しばらくすると、「あぁ。だいぶよくなった?」。おばあさんがにっこり笑っている。薄暗い店の中で、おばあさんの周りが太陽のように輝いて見えた。
「太陽のような」
新しい部署に異動になった。今まで経験したことのない職種だ。職場も別の場所になる。同じ会社でも、部署が変われば雰囲気もやり方も違う。
何とも言えない不安が、ずっと心の中を覆っている。新しい職場は、今までと同じ駅の反対方向だ。駅前の細道を抜けると、大きな通りに出る。長い並木道が続く。木々に囲まれて歩いていると、少しだけ気分が落ち着いてくる。
職場が見えてきた。また少しドキドキする。いつもこの瞬間が一番苦手だ。これからまた、0からスタートすると思おう。大きく深呼吸して、ビルのドアの前に立った。
「0からの」
ひっそりと存在したかった。皆、何も触れず、何事もなかったかのように接してくれる。遠巻きにして、決して近くには入ってこない。
なんて言ったらいいのか、どう接していいのか困っているのだろう。とりあえず、安全圏からの位置がずっと続く。
でも、いつまで続くのだろう。だんだんそれが辛くなってくる。もう、いつも通り、自分ではそのつもりなのだ。
そろそろ、その距離を解除して、誰か入ってきてくれないだろうか。声をかけてみようか。いつものように。人との何気ない触れ合いが、日常に戻してくれる気がするのだ。
「同情」