家まで帰る電車とは、反対方向の電車に乗った。ひたすら終点まで行くと、海にたどり着いた。遠いと思っていた海は意外と近くにあった。
夜の海は、冷たい風が容赦なく吹き付ける。凍てつくような寒さだ。もっと美しいものを想像していたけれど、海は暗く沈んでいた。よく見ると浜辺の灯りが反射して、手前のところの波がちらちら光っていた。遠くに島の灯りが見えている。
今日は家に帰りたくなかった。そうかといって、ずっと遠くに行ってしまう勇気もない。ちょっとした現実逃避だった。時々風に乗って、潮の香りがふわっとする。この匂いと波の音だけでも非日常だった。
空を見上げると星がきらめいている。こんな寒い日は、空気が澄んで一層きれいだ。こんなにはっきり見えるものなのか。空と海がつながる闇を、ずっと飽きずにながめていた。
「凍てつく星空」
それまでも、身につけるものや、普段よく使うものは、それなりに気に入ったものを選んでいた。でも、君と出会ってから、もっとちゃんとモノを選ぼうという気になっていた。
君は、いつも同じバッグをもっていて、それがトレードマークのようになっていた。「いつもそのバッグだね」と聞くと、こだわって選んだものであることがわかった。ほかにも、君の持ち物の一つ一つが、すごく高価というわけではなくても、とてもよく吟味されたものなのが伝わってきた。持ち主の人柄の一部を物語っていて、そんなモノと付き合い方がいいと思った。
そんな君に影響されて、私も少し持ち物にこだわってみることにした。気に入った一品を選ぶために、お店を何軒かはしごしてみる。遠くまでいったり、取り寄せまではしないのだけれど、その中でこれ!というものが見つかったら、それを大事に使ってみている。
たとえば、いつも使うペンだって、見た目や書き心地、握った感じが今一番しっくりくるものを選んでみた。そうすると、より愛着がわいてくる。そうやって選んだモノとの付き合いには、物語が紡がれていく気がする。
「君と紡ぐ物語」
どんな調子か、その部屋は妙に音の響きが良かった。そのことに気づいたのは、音楽を聴いていたときだ。何だか音が心地よく響く気がするのだ。
他の部屋で聴くと、特にいいとは思わない。その部屋だけが不思議と音が違って聞こえる。何かに反響するのか、どうなっているのかまったく分からないのだけど、よい音に聞こえる。音が研ぎ澄まされている気がするのだ。
大きな音では良さがでない。程よいボリュームにすると、いい感じになる。そんなに音楽が好きというわけではないのだけれど、この部屋ではよく音楽を聴いた。音が多重に重なり合うオーケストラ演奏なんかは特によかった。これは、私だけの秘密だった。ほかの人に言っても、?という顔をされるだけだったからだ。
それが、あるときから普通に聞こえるようになってしまった。他の部屋で聞くのと大して変わらない。どうしてそうなったのかも、やはり分からない。あの響きが失われてしまったことに、密かにがっかりしているのだ。
「失われた響き」
きんと冷えた朝。道の草にうっすらと霜が降りている。透明な小さな小さな氷の粒たちが、朝の光に輝いて、いつもの道が違ってみえる。
土の部分には、霜柱ができていた。土の合間に薄い氷の柱がちらちらと見えている。ザクっと氷を踏む感触が面白くて、土の部分を探す。それにしても、繊細で少し手応えのあるものを踏み締めるのは、なんて心地よいのだろう。足の裏で薄いものが、パラパラとほぐれていく。
すぐ壊れるものを踏むなんて、普段ならできないものをしているという感覚がいいのだろうか。ずっと飽きもせず、ザクザク踏み締めて歩いた。
「霜降る朝」
あんまり息をしていないなと思うことがある。本当に息をしていないのではなく、たまに息を止めていたり、深い呼吸ができていない。
いつも緊張状態になっているのだろう。緊張する場面ばかりにいるわけではない。勝手に緊張している。最近、ぐるぐる思考の沼に入っている。自分の心の中の奥深くにぐんぐん入ってしまって、そこから出られない感じだ。
そこに、何かちょっと嫌だなと思うことがあると、その嫌なことがさらに心をもやっと取り囲む。息がますます浅くなる。こうすることがクセになっているようだ。これでは、いけない。きっと側からみると大したことではないのだろう。
外を歩く。ひんやりした空気に包まれて、秋の匂いを大きく吸ってみる。そして、ゆっくり吐いてみる。空は高く、薄い雲が点々と連なる。
ふと、思う。起こるものは仕方がない。それに大きく反応するのではなく流してみよう。粛々と受け入れていこう。そう考えたら、ぐるぐる思考の沼は、小さくなっていくような気がしてきた。
空は広い。大きく呼吸をする。枯葉や木の匂いがまじったような匂いがする。新鮮な空気をいっぱい取り入れて、過ごしてみよう。
「心の深呼吸」