「もう長いこと世界がモノクロに見えるような気がする」と言っている人がいた。失恋したのだそうだ。そのことがずっと心に残っていた。
終わったのだと思った瞬間、世界からすっと色が失われたような気がした。例の人が言っていたことが分かった。それから長くモノクロのような世界で生きてきた。色は見えているけれど、はっきりしない。コンタクトレンズの調子が悪いと思うほど。
昔、コンタクトを初めて入れた日、世界はこんなに明るかったのかと思った。空はくっきり青く、物の輪郭ははっきりみえる。夜なんて、星のきらめきと街灯の灯りまでもがきれいだった。メガネの視界とは全然違って、カラフルな世界。心が踊って何でもチャレンジできる気がした。
そんなキラキラな感じが、ずっと続くと思っていた。
もちろん、コンタクトのせいではない。自分の中だけに閉じこもっても色は戻ってこなかった。でも、やっとまた人を信じてみようかと思えた時、少し色が見えた。また光と彩りのある世界へ移っていける気がした。
「モノクロ」
歩いていると、顔に当たる風が気持ちいい。少しひんやりしている。うーんって思いっきり伸びをしたくなるほどだ。今日の朝も涼しかった。クーラーなしで寝ることができるのは、なんて健やかなんだろう。朝起きたときの疲労感が全然ちがう。もう少し眠っていたくなる。
薄い衣類を軽く羽織って快適でいられるのが一番いい。こんな時期がずっと続けばいいのに。人はもっと穏やかに過ごせるのではないかなんて思ってしまう。
季節に限らず、いい瞬間はずっと続かない。でも色々と乗り越えた先に、次のいい瞬間がまたやってくる。もっといいものかもしれない。そう思うと、また次へ向けて乗り切れるかな。
「永遠なんて、ないけれど」
涙は、はっきりと感情が動いた時に出ると思っていた。まずは、悲しい時。どうしようもなく悔しい時、安心した時、そして、うれしい時にも。そのうちに、自分の情けなさを思ってもあふれてきた。
でも時を重ねてくると、感情は動くのにちゃんと涙が出なくなってきた。それを我慢することが多かったせいだろうか。まるで、涙のタンクがつっと枯れてしまったみたいだ。
それなのに、訳の分からないところでふと涙が滲むことがある。たとえば、人と普通に話していて、そうそうって分かり合えた時なんかに。どうやら自分でも気づかないような、心の引っ掛かりとも連動しているようなのだ。
「涙の理由」
よく行くカフェ。いつも同じコーヒーを頼む。ここのは、濃過ぎず薄過ぎず絶妙なバランスがよくて気に入っている。
熱々のカップに入れられたコーヒーが運ばれてくる時、なんともいえない幸せな気分になる。ふわっと漂う香りを楽しみながら、ゆっくりとミルクを少し入れ、口にする。あー。思わずため息が出そうになる。
そして、本を読んだり、手帳に書き込んだりして作業に没頭する。いつのまにかコーヒーは、程よいアクセント的な立場になっている。
先日、一人でくつろぐにはぴったりのカウンターに座った。窓から外が見えて落ち着く。コーヒーが運ばれてきた。ゆっくりと一口。その風味が口の中いっぱいに感じられる。そういえば、いつも温かいうちに全部飲めてなかったなと思う。
窓の外には、コスモスの花が見える。やっと訪れた秋の気配。今日は本も書き物もやめようと思った。コーヒーが温かいうちに、じっくりと味わってみることにした。
「コーヒーが冷めないうちに」
あの時こうしていたら…、なんてよく考えてしまうけれど、もしかすると、選ばなかったもう一つの世界は並行してあるのかもしれない。意識は、すっとその世界へ移れるのではないか。
もう一つの世界に入るとしたら、あの場所ではないかと思うところがある。特別な場所という訳でもなく、住宅街にある踏切だ。電車の線路が横にずっと続く。
普段は、人や車、自転車がひっきりなしに通る。でも、時々誰も何も通らない静かな瞬間がある。踏切の先に見える住宅や公園が、しんと静まり返っている。
確かに存在するけれど、それらは、まるで作り物でミニチュアの世界に入り込んだような感覚。一瞬、時間が止まったように感じる。そんな時は、もう一つの世界へ入っている気がする。
「パラレルワールド」