水上

Open App
8/12/2022, 10:17:47 AM

私はあの子のことが嫌い。
だから、同じ楽器なんて選ぶつもりはなかった。

社会人になると、職場と家の往復が主になる。私の属した会社は色々と自由で、最低限のルールを守ってやるべきことをこなしていれば、あとは楽しくお喋りしたり、お茶を飲んだりと気ままに過ごすことが許されていた。
「楽器やらない?」
似た趣味の先輩と、同じゲームにはまって。その影響をもろに受けて二人で新たな趣味を開拓しよう、と盛り上がった。やるならどの楽器がいい?なんて話しているだけでも面白かったけど、二人とも変なところに行動力を発揮してしまい、それぞれ違う楽器を買った。本当に買った。諭吉が数人消えていったのは言うまでもない。
「似合うね」
先輩はそう言ってくれたけど、私は自分の選択に少し困惑していた。まさか自分があの子と同じ楽器を選ぶなんて。違う、あの子じゃない。これはゲームで推しキャラが演奏していた楽器。躍起になって胸の中で繰り返し言い訳する。だけど本当は、私の記憶の中であの子の奏でる旋律が、ずっと鮮明に残っている。


〉君の奏でる音楽

8/10/2022, 10:21:59 AM

人生の終点はどこだろうか。

よく「結婚は人生の墓場」なんて聞くから、ある意味では終点だろうか。子育てが落ち着くとセカンドライフが、なんて考え方をするから、こっちが一つ目の終点?でもやっぱり、終わりという意味ならば、命の終わりがそのまま人生の終点と思えば、それもしっくり来る。

部屋の片隅。見慣れた笑顔が飾られているのは、まわりのインテリアと調和するように作られた今風の仏壇。写真の中の母はいつもきれいだ。

皮肉なもので、あなたの終わりが俺にとっては新しい始まりになった。苦戦ばかりの、さながら“弱くてニューゲーム”状態。一部のマニアにしかうけなさそうな仕様だ。

一人減っただけで、家の中はやたらと広く、暗く感じた。親父も俺も、時々料理をするようになった。親父の作る料理は、見た目だけ母さんの料理にそっくりだけど、味は驚くほど個性的だった。

「いってきます」

俺たちは毎日、返事のない声掛けを繰り返す。


〉終点

また、前回の続き。これにておしまい。

8/9/2022, 11:33:21 AM

ゆらりとゆらめく水面。体温より少し高めに設定した温みが、肌に染みていく。対照的に、疲労感はじわじわと、溶けて染み出ていくようだった。

あれから不定期に観察の日を設け、幾度かオトモダチと出掛けたりもした。服はサブスク頼り。選べないし管理も苦手だから、これが一番。待ち合わせには遅刻せず、それなりに会話も弾んだ……と、思う。自信はない。

一日の終わり。浸かる湯船はいつも反省会の場所。これで良かったのか、次はどうするのが自然か。相変わらず人と少しずれた悩みに惑いながら、日々もがいている。

〉上手くいかなくたっていい

昨日の続きのようなもの。

8/8/2022, 1:53:27 PM

人は知ること、真似ることで覚えていく。それは生きること全てに共通する、学びの原型のように思う。

穏やかな日差しが町並みをやわらかく染めている風景を、コーヒーショップの大きな窓越しに眺めた。休日の日向には溢れんばかりの睦まじい姿が満ちていた。友達、恋人、家族。肩書きは様々違えど、感情がもたらす行動選択肢には極端な差は無いようだった。好きな相手には優しく、苦手な相手には程良く。

平和だ、とどこか他人事のように眺める。いや、実際他人事だ。この平穏と親睦の空気にはどうにもなじめない。

とは言えある程度なじまないことには。さもなくば生きていくための攻略難易度が跳ね上がってしまう。だから仕方なく、ぬるくなったコーヒーを片手に行き交う人の振る舞いや何かを盗み見て、情報として自分の中に蓄積する。効率が良いとは言えないが、楽でいてそれなりの成果が見込めるだけじゅうぶんだ。

愛というのは時に難儀なもので、とかく正しいように見せかけて問答無用で人を縛ってしまうことがある。

可愛らしくて、したたか。そんな言葉が似合う母親に溺愛されて育った。朝食は起きてからのオーダー式。着替えは気温や湿度を考慮し、色味や柄のバランスなんかも悩みなが選んでくれた。おやつはいつも手作りで、小学校高学年になるまでは、一人で外出することもなくただひたすら、母の庇護下で育った。

その結果、食は気分に依存し、服のコーディネートはさっぱり分からず、単独では上手く他者とコミュニケーションが取れない自分が出来上がった。

母の庇護という名の監視から解き放たれて唯一幸福を感じたのは、家でも市販のお菓子が食べられるようになったことだった。



〉蝶よ花よ

8/7/2022, 1:35:17 PM

音の無い夜。全てが世界から消えてしまったかのような静寂。自然豊かな場所に立つこの家はとても広い。普段ならもう少し人の気配や物音が控えめに空気から伝うのに、今日はそれが無い。計画が上手く運んでいることを肌で感じながら、呼吸を整える。息を吐く音が鮮明に聞こえた。

目の前の豪奢な扉を押し開くと、天蓋の掛かったベッドで寝息を立てているのが見えた。

紅茶色の髪も瞳も、暗さで閉ざされていても脳裏にはっきりと浮かぶ。鮮やかに思い出せる。もうずっと長いこと見てきたから。

だからといって、ためらうことは許されない。そもそもそんな感情も感傷もないけど。眠りの深さを確かめてから、指示通りに薬を投与する。

「おやすみ、さよなら」

届くはずのない挨拶をして、額に口付ける。愛着があるわけじゃなく、ただの儀式。いつもと同じ繰り返し。せめてあまり苦しまないようにと、それだけを願って。

部屋を出て少し待つ。ほんの数分、あの子がのたうち回る音がして、止んで。先程出てきたばかりの扉を数センチ開けて中を覗く。床に倒れた人影がもう動きそうもないことを確かめて近付いた。

「呼吸、脈、瞳孔」

確認漏れのないように呟きながらそれぞれを確かめる。骸になったそれをベッドの上に戻して今度こそ部屋を出た。窓の外に、月が見えた。

「お疲れ、おかえり」

屋敷の門を抜けると、一台の車と見知った顔がいつも通り待っていた。

「ただいま、終わったよ」

後部座席に乗り込んで、深く息を吐く。

「久し振りだね。今回少し長かったから」

僕がシートベルトをかけたのをミラー越しに確認すると、車はゆるやかに発進した。

「そうだね。二年振りのただいまだ」

僕と君が出会った日。それよりももっとずっと前から、この結末は決まっていた。



〉最初から決まってた

Next