「はじまりはいつも」なんて定型句、「バレンタインはチョコ」と同じではないか。
何か特別なことが起こる日、自分の中で何かが生まれるきらめいた予感、しかしそういったトキメキは大体メディア広告の戦略によって生まれた副産物だ。
チョコレート会社が購買意欲をそそのかすために生まれた言葉だったように、はじまりの予感も大体は恋愛コメディ映画やドラマで作られたキャッチフレーズだったりするものだ。
けれど、自分の中で誰かに言われずともはじまっていたルーティンもあったりする。
朝のはじまりは、いつもコーヒーの一杯がかかせなかったり、休日のはじまりは、ちょっと贅沢に二度寝をしていたり、恋のはじまりは、なんとなくスマホの通知から意識を離せなくなっている。
はじまりはいつも、無意識のうちに起きている。好きなものからはじまっている。好きが私のはじまりをつくっている。
だから、「バレンタインはチョコ」ぐらいのテンションで丁度いいのだ。上等だ。
お題/はじまりはいつも
「原因はすれ違い」と呼ばれるものに、根本的な原因がすれ違いのものはない気がする。
すれ違いという言葉を借りれば、大体のことを運命論の名の下で有耶無耶にできるだけで、直接的な要因は実に味気ないものだったりするものだ。
それは例えば恋人同士の場合、朝の挨拶を手抜きしたとか、仕事が忙しくて全然連絡がとれなかったとか、折角選んだプレゼントをあげた反応が予想してたものよりも素っ気なかったとか、そういう小さなきっかけが積み重なってできた鬱憤や不安によって喧嘩や別れに至る。
つまり、すれ違いは、日常的に相手に自分の気持ちを伝える努力を怠った言い訳に過ぎない。それをまるで「あの時の自分たちは仕方なかったんだ」とドラマチックにしっとりと思い耽る行為は、失恋してから半年以内が賞味期限ではなかろうか。
しかしそんなふうに斜に構えていた私にも転機が訪れる。そう、恋をしてから気づくこともあるのだ。
「あの時は仕方なかったんだ」と誤魔化す時間が心の傷を癒すために必要なのだと。勿論、すれ違いは原因ではない。そんなものは耳心地のいい言い逃れだ。分かってる。けれど、すれ違いでなければ諦められない恋だった。そうでなければ手放したくないものだったのに。
お題/すれ違い
秋に晴れると嬉しくなるのはなぜだろう。
春晴れとは言わない。夏も言わない。冬は、初冬なら小春日和と呼ぶこともあるかもしれない。でも冬晴れとは言わないだろう。
秋晴れは、空気が澄んで晴れ渡ってる空の様子を指しているらしい。抜けるように青い空。台風が過ぎ去って現れた移動性高気圧の影響らしい。対流も発生しにくいから塵埃も立ちにくく、埃が舞っても雨ですぐ洗い流されるのだという。まるで季節の洗濯だ。
暑い夏の終わり、清々しく過ごしやすい日に移り変わって、人も虫も皆皆揃って外へ出てくる。それから暫くしてから花粉も出てくるだろうから、秋晴れを心から堪能できるのは本当に束の間だ。そしてしんしんと冬がやってくる。
小さな小さな秋が顔を見せてくれるのは、片手に数える程度かもしれない。
だから、秋に晴れると嬉しくなる。今年も。
お題/秋晴れ
自分の人生は、失敗ばかりだ。
ヤマザキ製パンのシールを集めたハガキに切手を貼るのを忘れていたり、マイナンバーカードの暗証番号を書いた控えの紙を何処かになくしてしまっていたり、人の名前と顔を覚えられなくていつもなんとなく愛想笑いで挨拶して、結局いつまで経っても分からないままだったり、あぁ、それと、これはあまり人前で言えないことだけど、個室のトイレの鍵の閉め忘れは短くはない人生で何度となくやってしまっている。
私の脳は効率がすこぼる悪い。周りの人たちはきっと私よりも上手く生きていると思うと、なんだか情けない。
忘れられない失敗ばかり、忘れたいことばかり、私の脳の中でチカチカと瞬いている。
恥の数だけ星が煌めくなら、私の脳内は星月夜だろう。きっとゴッホの世界よりも負けないカオスになっている。
チカチカ、チカチカ。
忘れたい思い出に限って忘れられないのは、その思い出の星が、私に忘れて欲しくないからなのだろう。だから、ずっと瞬いているのだ。
星空の綺麗さなら誰にも負けない気がする、出来の悪い脳みそだけど。きっと小宇宙なのだ。
お題/忘れたくても忘れられない
水族館の中はいつも暗くて、涼しくて、少し海水のしょっぱい磯の香りが匂って、沢山のお客さんの喧騒もあって子供の頃はあまり好きではなかった。
背も低いから、水槽の一番前に行かないと人だかりで何も見えなくて、大人しく順番を待っている間に飽きてしまうことも多かった。
親はそんな私を見て、「水族館つまらない?」と聞いてきたが、照明のせいで顔がよく見えなかった。
だからか、親がそばにいるにもかかわらず、なんだか自分が夢の中へ迷子になってしまったような心地になっていた。
見上げると、ただただ自分がちっぽけに思えた。そんな中で、水槽のゆらめきは一等美しく見えた。人工照明だろうけど、ゆらゆらと水面の動きが光に当てられてゆっくりと移ろっていく様を見るのが、とても好きだった。時に魚や川藻の動きに合わせて、柔らかく表情を変えるその光が、私の幼少の頃に思い出される水族館の思い出だ。
水族館の世界は、私の寂しがりの心を知っているかのようだった。
お題/やわらかな光