「私ねえ、君と一緒になれてよかったよ。」
とろけた頭と体でほろりとつぶやいた。
え、とわざわざコップに注いだ水を差し出して君は固まった。そんな大袈裟だよ。ひとりごとなのに。
「最初は慣れなかったけどね。奥さん、て呼ばれるのもなかなか良いよ。あらら、なんて思っちゃう。」
「…あ、結婚のことか。すまん。」
あれ、なんか変な言い方しちゃっただろうか。
「あー…俺も。嬉しいよ。」
「ぷはー。これでいいのだ。」
「いい、のだ…?」
コップの水を一気に飲み干しオチがついたところで
さてどうしよう。
「寝ますか?」
「…寝ないとダメか?」
「明日寝坊しても知らないよ?」
「後悔はしない。」
「それなら。」
たとえばこの決断が間違いだったとしてもそれで良い。
あとは幸せを享受するだけ。
そう、これでいいのだ。
たとえ間違いだったとしても
ぽたり。音は無くただ暴力的な赤が眼に焼きついた。
その赤は着ていた白いシャツをあっという間に浸食し
彼は血溜まりに膝をついて崩れ落ちた。
救急車を応急処置を刺した奴はと頭はやけに冷静なくせに体は動かない。彼の冷えた体に触れることで精いっぱいだった。
顔にかかった前髪をどかすといつもの彼が居た。
こんな目にあっているくせに妙におだやかな顔をしている。まるでいつもの事、と言っているかのように。
「どうしたのさ。僕なら大丈夫だよ。」
そんなはずあるか。血溜まりはおかしなくらい広がってついには私の膝すら汚している。
「あんたを残して死ぬわけないよ。ほら、こっち来て。キスしてくれたら治るよ。」
嫌だ。最後のキスなんてごめんだ。嫌だ嫌だ。
死なないでくれ。頼む。お願いだ。
私をひとりにしないでくれ。
いつの間にか私は見知った部屋に居た。
体中に汗とも涙ともわからないものが伝っていた。
夢か。夢であってくれ。
「…はい。」
電話口の向こうからだるそうな、面倒そうな声が聞こえてひどく安堵した。生きている。
「…良かった。」
「何急に。今何時?…はあ、まあいいけど。気分最悪だよ。目が覚めた。ねえ責任とって寝かしつけてよ。」
「すまない。了解したよ。」
ぽたり。蛇口から落ちた雫の音が真っ暗な部屋に響いた。
雫
「今日のお髭すごく似合っています。素敵。外国の俳優さんみたい。」
「は、はあ…。」
「そんなに怖がらないで。捕まえて食べようというわけじゃないの。」
「そう、ですか…。はい…どうぞ。」
この子との会話は実に心臓に悪い。
店に来て世間話をして花を一輪買って終わりのときもあれば、今日のように熱烈…な思いを伝えられることもある。真っ赤なバラの花束を添えて。
しかし俺の答えを求める素振りは無い。故に少し不気味さを感じる。
「…いつもありがとう。」
「こちらこそ。いつも素敵な姿を見せてくれてありがとうございます。…あれ、これって。」
「…おまけ、です。この前そこにいるうさぎを褒めてくれたので…日頃の感謝を込めたというか。」
「ありがとう。でも本当に何もいらないのに。」
「良いんだ。俺が、こうしたかったから。」
プレゼントなんてものは所詮自己満足。あとは受け取った側に委ねられる。
「この子、とてもかわいい。あなたそっくり。大切にします。どうもありがとう。」
にこ、と普段とは違う年相応の笑顔を置いて店を出て行った。
あの子の手に渡った小さなくまのマスコット。
あれは少々自信作だった。あの顔だけで見返りはいらない。
あの子の気持ちもそういうことなのだろうか。
何もいらない
唐揚げが食いたい。
勤務中にふと気が付いた。
俺は今唐揚げが食いたい。
もう口が完全に唐揚げの口になってしまった。
帰りにスーパーにでも寄って買って行こうか
そう考えていたらあの人からメッセージが届いた。
「今日からあげだよ!早く帰っておいでー。」
まじか。未来予知かテレパシーか。
もともと不思議な空気を纏った人だがまさか。
足早に帰宅した自宅からは外まで美味そうなにおいが漂っていた。
「なああんた未来が見えるのか。」
「まさかぁ。だったらあんな失敗しないよ。」
ぐ、と言葉が詰まる。あんな、とはこの人のひどい過去の恋愛話だ。
本人はあはは、とあっけらかんに笑うが俺はいつも一緒になって笑うべきか迷う。
「未来が見えたら、かあ。ちょっと怖いけど楽しそうだね。宝くじなんか当て放題だよ。」
「まあそれは…人としてどうかと思うが。」
「真面目だねぇ。君の良いところだ。」
誰もが惚れてしまうであろう笑顔。キラースマイルというやつか。もし名の通りの効果があれば俺はとっくにあの世行きになっている。
出来たての唐揚げを口にしながらひとりそんなことを考えていた。
「未来か。私たちの子どもの顔も見れるかもね。」
…………は?
「あ、ビール持ってくるね。ごめん、忘れていたよ。」
…え、いや今…。
「はいお待たせ。今日暑いねえ。」
しっとりとした素肌にぱたぱたと手でわずかな風を送る仕草に妙な気分がそそられる。
「お疲れ様。はい、かんぱーい。」
「…かんぱーい。」
いつのまにか持たされたグラスの中の冷えたビール。
山盛りのあつあつの唐揚げ。
最高の金曜日のはずなのにもう何も考えられなくなった。
良い未来だろうが悪い未来だろうが
やっぱり未来なんぞ見れなくていい。
俺はこの人との今を生きることに精いっぱいだ。
もしも未来を見れるなら
私の見る世界は基本色が無い。単なる比喩だが。
白黒映画のようと言えば聞こえは良い。
内容は気色の悪い笑顔と共におべっかや嫉妬、腹の探り合い、安い会話が只々くり返される駄作だ。
そんなものを見た日の夜はひとり部屋で煙草をくゆらせ現実を煙の向こうに追いやる。
くそったれ共の顔も幾分かマシになるからな。
日の光と肌寒さに叩き起こされた朝。
開ききらない眼の奥で見た
煙草の煙の向こうにいる彼には確かに色があった。
「おはよ。」
「おはよう。…君、そんな顔をしていたのか。」
「うん?そうだけど。」
「そうか。男前だな。」
「今気付いたの。」
ああ。今やっと気付いたよ。君の髪、眼、肌の色。
日の光と煙の白から浮き上がってくっきりと見えた。
「それは私のだろ。そんなに吸いたいなら煙草ぐらい自分で買いたまえよ。」
「別に無くったって死なないから。これは格好つけ。
前にさ、煙草を吸う姿が俳優みたいで良いって言われたんだ。」
「はは。まあそれは否定しない。だが何のために。」
彼はふーっと気だるげに煙を吐き、慣れた手付きで灰皿に灰を落としたあと私に近寄ってきた。私はその黒曜石のような眼に捕らえられ、そして
「そんなの、あんたに好かれたいからに決まってる。」
にっ、と煙草をくわえたままのいたずらな笑顔を向けられたのだ。
彼が離れればたちまち色を失い元に戻るであろう脆い世界。そうしたらまた君の手で乱暴に彩ってほしい。
煙草なんかより簡単に飛べそうだ。
無色の世界