「先輩ってなにかつけてます?」
「んえ、別になんもつけてねえけど」
「でもなんか匂いが……」
「あーつけてるって香水のことね。んー……あ、ほらこれじゃね」
昼休みの廊下、人がまばらに行き交う中、偶然見つけた影をとっ捕まえて面白くもつまらなくもない話を駄弁っていると突然デリカシーが微妙に欠けたことを言い出した。
内ポケットから薄紫の液体が半分ほど入ったガラス小瓶を取り出すと不躾にヒトの体臭を嗅ぐぺちゃんこな鼻に制裁としてそれを噴射させる。
「うわっぺっぺっ!口に入っちゃいましたよ!」
「アホみたいに口開けてんのが悪いんじゃん」
「あ、でもいい匂い…。いいなあ、私もお金貯めて買おうかなあ」
「▓▓▓▓ちゃんにはまだ早いんじゃない?」
「私先輩と一個しか離れてないんですけど」
「一個もだよ」
じっとりと睥睨するがお世辞にも怖いとは呼べない、小生意気でかわゆい表情だ。
「先輩はいつから香水つけてるんですか」
「一年の時から」
「じゃか全然早くないじゃないですか!」
「うるせえなあ……オラ!」
「ぺっぺっぺっぺっ!やめてください!」
「ギャハハッ、▓▓▓▓ちゃんは赤ちゃんみたいな匂いさせときゃジューブンでしょ」
「乳臭いってことですか?」
「ミルクみたいないい匂いってこと」
オレはぴちぴちと暴れる小さな身体をぬいぐるみのように持ち上げ、その首筋に鼻先を埋めるとすぅっと一つ大きく深呼吸した。
#香水
空がミルク色に白んでいる。
どうやらまだ起きるには早い時間らしい。
脳はまだとろけているようでぼんやりとおぼつかない思考が頭蓋の中で攪拌される。
だのに眼球だけは妙に冴えていて、わずかながら億劫に思いながらもこのまま眠れることはもうないだろうと無理やり起き上がりエアコンの冷気でひんやりとしたフローリングに足をつける。
目覚めの一杯に泥水のようにまずいコーヒーでも飲もうとスーパーの安売りで買った組み立てラックからインスタントコーヒーを手にとると《ピンポーン》と小気味良い音が1Kの部屋に響いた。
そこでふと気づく。
ああそうだ、そういえば私が嫌々起きてしまった理由はこの音だった。
しかしこんな朝早くから一体どこの不躾がこんなボロアパートに御用があるというのだろうか。
自慢じゃないがあまり交友関係の広さに自信なしなのでかなり不審に思いながら覗き穴に顔をびたりとくっつけると小さなガラスを隔てた向こう側には布に覆われた壁があった。
なんでこんなもんが私の玄関前にあるんだとますます疑問に思っていると突然壁が喋り始める。
「▓▓▓▓ちゃん開けてよお」
聞き馴染みのある声だった。
しかし同時にあり得ないとどこかの自分が強く否定する。
「▓▓▓▓ちゃん開けてよお」
この声は、この声はかつて高校時代私の先輩だったあの人だ。
間延びした独特の調子、言葉尻が溶けるように下がる糖蜜のような声色は私が知る限り彼しかいない。
でもどうしてここに?今日は、
「▓▓▓▓ちゃん開けてよお」
突如聞き慣れた軽快な音がどこからか流れてくる。
今日はいったいなんなのだ。
扉を気にしながらもベッドの端にいき、目当てのものを見つけると液晶に映る人物名を確認した後右にスライドし耳を寄せる。
「どうし、」
「彼、あなたのことがずっとずっと好きだったの。私と付き合ったのもあなたが振り向いてくれなくてやけになったからって言ってた。きっと嫉妬して欲しかったんだと思う。三時間前、私のところにやってきて急に『オレと別れて』って言われたの。呆れたわ、だって今日は結婚式だったはずなのよ。もう私もしっちゃかめっちゃかになっちゃって、手当たり次第に物を投げたわ。机もゴミ箱も、貰ったアクセサリーも、二人の写真が入ったフォトフレームもアルバムも。マグカップも。でも知っていたの、私は最初から彼があなたのことを好きだったって。それでもいいと思って告白したのも私。最低なのは彼の心の傷に入り込んだ私も一緒だって分かってた。私は彼が好きだった」
矢継ぎ早に言われる自分が知らない話。
彼女は自分すら穿つ錐のように尖った言葉を喉を震わせ吐き出しながも尚も言い募る。
「アクセサリーはきっとあなたに似合う思って買った物だし二人で行ったデート場所は全部あなたが行きたいっていってた場所ばかりだった。悔しくて悔しくて仕方がなかった。怒りに眩んでどんな罵声を浴びせたか覚えてはいないけれど普段は他人のつむじしか見てなさそうな男が土下座する姿は痛快だったわ。でもそんなの晒されたところで私の溜飲が下がるなんてことあるはずはなかった」
「………」
深いため息が一つつかれる。
「けど私は許したの。許すことがあの男と私は違うという唯一の証明だったから」
「▓▓▓▓ちゃんあけてよお」
「なのに、なのに……なのになのになのに、」
「▓▓▓▓ちゃん▓▓▓▓ちゃん▓▓▓▓ちゃん」
耳の奥で響く、ドクドクと流れる血流の音が大きく聞こえて煩わしいったらなかった。
オレが最低なやつってことはお前らに言われなくても判ってるよ。
他人を利用して貶めて。
それでも喉から手が出るほど欲しくなったものがあった時、オレは我慢の仕方がわからなかったの。
だからこんなつまらない空回りなんてして結局なにもかもうまくいかなかった。
笑っちゃうよね。
どうにもならなくなってあの日の夜、あいつに「オレと別れてほしい」っていったんだ。
空のビールジョッキが割れる勢いでブン殴られたのはクッソ痛かった。
そりゃ結婚式直前でそんなこと言われたら誰だって怒るわ。全部オレへの報い、当然だよね。分かってんだわそんなこと。
あいつが意気消沈した頃
頭から血を吹き出しながらふらふら立ち上がったオレは▓▓▓▓ちゃんの家へ向かった
『先輩、あの子と付き合うことにしたんですか』
『んー?そうだよお……▓▓▓▓ちゃん寂しい?』
『……寂しくないかと言われれば嘘になる気もします』
『え!?ウソ!?!!?』
『私はいつでも素直ですよ』
『ヤ、それはねーけど』
『本当なのに……』
『じゃなくて、…あ、あのさ、▓▓▓▓ちゃんがどーしてもっていうなら』
『先輩』
『んえ?』
『あの子のこと、大切にしてくださいね』
ハイビームの光が視界を眩ませる。
そこからは何も覚えていない。
「▓▓▓▓ちゃん開けてよお……開けてえ」
ボロアパートの一つの扉の前、ずっと前にもぬけの殻になったそこにオレは愛しい女の返事が聞こえるまで今も立ち続けている。
#突然の君の訪問
最近先輩が冷たい
何を話しても「あっそ」「へー」というだけでつまらなそうにスマホを弄ってる。
しまいには「飽きたあ」といってふらっとどこかへ行ってしまうのだ。
告白したのは私だしあまり私に対しての愛情がないのかもしれない。返事だって「えー?▓▓▓▓ちゃんオレのこと好きなのお?ふぅん……」というOKなのかOUTなのかいまいちよく分からない返しをされたし。
その後おてて繋いで教室まで送られたあと額にちゅっと可愛くキスをされたからその音で「あ、一応付き合ってるんだな」って理解したんだけど。
私の一方通行のような想いをただぶつけただけの始まりだったがそれでも最初の頃はもう少し優しかったと言うか、人の話を聞いてくれていた。
ちょっと傷つくけどつまらなかったら「つまんないから別の話して」というしあちらからもアクションをとってくれた。
スキンシップだって付き合う前から他人との距離が異様に近い人だったが加速して近くなった。
出会ったら何食わぬ顔で必ず先輩は私の体のどこかしらにくっついてくる。
それはもう実はお互いに磁石が入ってるんじゃないかと言うレベルで。
当然最近はそう言うことも無くなってしまっていった
「潮時なのかもしれないな」
もともと気移りしやすい先輩と一年ももったのが奇跡に等しかったのだ。
5本の指にも満たない年数しか送れない貴重な学生時代に刹那の輝きを手にしただけ幸福だと思おう。
その後私から会いに行かないと顔すら見ることのない、私からメッセージを送らないとおやすみの挨拶すらない先輩との恋人関係は数週間後、自然消滅という形で幕を閉じた。
我が家へ帰ると先輩は玄関の前で傘も差さずに佇んでいた。
うちは軒がないのでバケツをひっくり返したかのような雨水を直に頭から被っており、いつもは先輩の自由奔放さをあらわしてるかのようにぴょんぴょんとあちこちに跳ねている髪は今日は全てしおらしくしんなりと下がっている。
なぜいる?数週間しか経ってないし正直気まずいのだけれど。
私の家の前にいる以上このままあちらへ行けばなんらかのアクションを取られることは必然だしそれがどのパターンであれど自分にとっては喜ばしいことが一つもないと薄々勘づいているので、どうしようかと気付かれないよう遠目から暫く観察する。
「……んん?」
数十分経っても微動だとしない様子を見ていつもはコロコロ気分が変わるくせに何故こういうしょうもないことに関してはすぐ飽きないのかと静かに嘆息していると、ふと先輩の顔の動きに違和感を覚えた。あ…ああ?……あ!!!
「こ、こっちに気付いてる……!気付いた上で態とこっち来ずに"オレかわいそう"アピールしてる……!」
なんて男だ!
こちらに詰めず、泣き付かず、態と雨に打たれて被害者アピールしてやがる、自分からは直接戦わず、相手に降伏を誘導させるとは流石の卑劣さだ。こちらは何もしていないと言うのに何故そんなに被害者面ができるのか。
あれか、雨晒しで放置してるのが悪いのか。え?勝手に来たのはあちらなのに?
こちらが血相を変えたのなんて当然の如く見えてるであろうに尚も長いまつ毛(遠すぎて対して実際はわからないが)をしぱしぱと瞬かせて大男が瞳を潤ませているのをみて怖気が走る。
きっとこの男を内部を知らない人間は憂いを帯びた顔で雨に打たれている長身痩躯の美丈夫に感嘆の吐息を漏らすのだろう。
出会ったばかりの頃の自分も間抜けにその輪に加わっていたに違いない。
心臓をハムスターのように高速で運動させながら更によくよくその口元をみるとなにやらボソボソと小さく動いている。
知りたくない。だが人間とは愚かだ。好奇心は時に恐怖すら凌駕する。
「逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す好き逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す逃げたら殺す」
こんなの反射的に逃げてしまうに決まってる
「逃げてんじゃねえぞオ゙イ゛!!!!!!!!」
「ひぃっ、ひいっ、この状況で逃げない人の方がどうかしてる」
「聞こえてンぞクソアマ、ぶっ殺してやっからなア゛!!!!!!」
「ヒーーッ」
1分もかからずに捕まってしまった。
「おかえり▓▓▓▓ちゃん、寒かったでしょ?ビーフシチューあるよ、パンも焼いたから一緒に食べようねえ」
「………」
もう既に家入ってたんかい。
「その後なんでさっきオレ見て逃げたのか、顔見せないどころか連絡すらよこさなかったのか、ゆぅっくり話し合おうねえ…何。そんなに怖がらなくてもオレ怒ったりしてねえからダイジョーブ」
語尾にハートが付きそうなほど砂吐く甘ったるい声で話しているというのにどうしようもなく体が冷える。雨の中長時間外にいたせいかもしれない。
それにしても酔ってる人間が酔ってないと言い張るように、怒ってる人間ほど怒ってないと言うのは一体なんなのか。
#雨に佇む
2022/1/21
『▓▓▓▓ちゃんとの間に念願の赤ちゃんが出来た!▓▓▓▓ちゃんはまたにてぃだいありー?っていうのを書くみたいだからオレもまたにてぃだいありーを書こうと思う。
続くか心配だけど。
でも▓▓▓▓ちゃんと赤ちゃんへのお手紙と思ったらちょっと恥ずかしいけど全然続けられる気がする。はやくでてきてね、おチビちゃん』
2023/1/25
『日記を書きがてら隣ですよすよと寝ている▓▓▓▓ちゃんのお腹を優しく撫でてみた。
まだ全然大きくない、こんなに薄っぺらくてふにゃふにゃなやわらかいお腹の中で今まさに生物としての一大事が起きているなんて、命って不思議。
▓▓▓▓ちゃんのふくふくした頬をこしょこしょ擽ると寝てるのににこにこ笑った。赤ちゃんが赤ちゃんを育ててるみたいだね』
2023/2/21
『▓▓▓▓ちゃんがずっとげえげえしてる。雑誌の裏にのってた通販のお肉をみるだけでとっても辛そう。
トイレが一番落ち着くみたい。
お医者さんは栄養バランスをしっかり考えた食事を心がけて下さいって言ってたけどそもそも飯が食えねえんだから仕方ない。
これなら流し込みやすいかなって思って野菜とフルーツをたくさん入れたスムージーを作ってあげた。
▓▓▓▓ちゃんは一口も飲めなかった』
2023/4/8
『久しぶりに空が真っ青。最近は雨ばっかりでじめじめしててなんだかすげえイライラしてたし▓▓▓▓ちゃんも頭が痛い痛いって布団から全然出られない様子だった。
でも今日は朝早くから洗濯物を干して、ベーコンと卵を乗せたトーストと、あたたかい紅茶を飲んでる。
あまりにおいしそうに食べるから明日も元気だったらたまねぎとチーズたっぷり乗せたトーストにしようねって言った。
▓▓▓▓ちゃんは本当は紅茶よりコーヒーがいいんだけどねって少し笑いながらすこしふっくらしたお腹をそっと撫でてた』
5/21(日)
『階段から落ちてしまった』
2023/7/2
『しばらく書けなかった。▓▓▓▓ちゃんがママさん講習っていう妊婦のお勉強会?みたいなものに出た帰りに冴えねえ黒髪の男にぶつかられて駅の階段から落ちていっちゃった。幸いに母子は無事だった。なんで▓▓▓▓ちゃんがこんな目に遭うんだろう。
赤ちゃんを守るための授業に出て赤ちゃんも▓▓▓▓ちゃんもいなくなっちゃ本末転倒だよ。
どうかもう外に出ないで。必要なものがあればオレが買ってくるしママさん講習だってオレが出るからさあ』
2023/8/1
『最近▓▓▓▓ちゃんはずっと暗い顔をしてる。
つわりの時みたいにごはんがまた喉を通らないみたい。
どうしたの?って聞いても最近はすっかりぽってりしたお腹を庇いながらしくしく涙を流すだけ。
お腹が痛いのかな。あんなぺちゃんこだったお腹がこんなに突っ張ってんだもん。今にも皮が裂けてそこから赤ちゃんが出て来そう。
泣き疲れて机に伏せて寝ちゃった頃、破れないようにそっと可愛いまんまるを撫でたらぽこってお腹がお返事をしてくれた。あは、ママはこんなに辛そうなのにお前ってば元気あるね』
2023/8/27
『Happy Birthday!!!
0時2分、オレと▓▓▓▓ちゃんの可愛い可愛い天使が産まれた!
これからの人生、辛いことや悲しいこともたくさんあるだろうけど三人で乗り越えていこうね。(もしかしたらもっと増えるかもだけど……)
▓▓▓▓ちゃん。
産んでくれてありがとう。
二人とも愛してるよ。
これから大切に大切にするからね』
「あなた誰なんですか」
「は?」
すっかりぬるくなったカプチーノが懸命にそれがそれであろうと抗い、なけなしの泡を僅かずつぷちぷちとゆっくり、ゆっくり弾けさす。
目の前の彼は普段は緩く垂れ下がった眦をきゅうとあげて身体を強張らせている。
口を真一文字に引き結び、小刻みに揺れる前髪からちらちらとのぞいているなだらかな額はわずかに脂汗を滲ませ嫌に照っている。
私よりも遥かに大きな図体を私から隠れるように小さく丸ませ、時折母親のご機嫌を伺う子供さながらにちらちらと此方の顔色を伺う二つの瞳はたっぷりと水を蓄えゆらゆらと水面を揺らめかせていた。
まるで悲劇のヒロインだ。裏切られたのはこっちだというのに。
「もっ、もう、本当にだめなのかなあ……」
「ごめんね…ごめんね…だめなやつでごめんねえ……」
泡が弾ける音さえ聞こえる程の静寂は、次第に目の前にいる大きな子供の鼻を啜る音でかき消されてしまった。
「ごめんなさい……ごめん゙なざい……」
彼は椅子から転げ落ち足元までのたのたと這ってきたかと思うと私の腰に長い腕を巻き付けて擦りガラスに似た悲痛な声で泣き始める。
カプチーノとは違う、人工的な甘ったるい匂いがわずかに鼻腔を掠めた気がして少し目頭が熱くなった。
「私の方こそすみません」
あなたの心に寄り添えなくて、あなたの自由さを受け止めきれなくて。
きっと今ここで許したとしてもあなたはきっと繰り返します。
上部だけ削っても根はしっかり張り付いているんです。私じゃああなたの根は取り除いてあげられない。私は身体も心も小さくてひ弱だから。
彼は私の謝罪にぱっと顔をあげ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃなくせにそれでも綺麗な顔を笑顔にする。
部屋の片隅、古ぼけたドレッサーについてる鏡をふと横目で見る。
私達はあの鏡に向かい合わせた時みたいに揃っているようで左右ちくはぐ。
同じ言葉でも贖いと拒絶じゃ訳が違うのだ。
#向かい合わせ