ヤツメ

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空がミルク色に白んでいる。
どうやらまだ起きるには早い時間らしい。
脳はまだとろけているようでぼんやりとおぼつかない思考が頭蓋の中で攪拌される。
だのに眼球だけは妙に冴えていて、わずかながら億劫に思いながらもこのまま眠れることはもうないだろうと無理やり起き上がりエアコンの冷気でひんやりとしたフローリングに足をつける。
目覚めの一杯に泥水のようにまずいコーヒーでも飲もうとスーパーの安売りで買った組み立てラックからインスタントコーヒーを手にとると《ピンポーン》と小気味良い音が1Kの部屋に響いた。
そこでふと気づく。
ああそうだ、そういえば私が嫌々起きてしまった理由はこの音だった。

しかしこんな朝早くから一体どこの不躾がこんなボロアパートに御用があるというのだろうか。
自慢じゃないがあまり交友関係の広さに自信なしなのでかなり不審に思いながら覗き穴に顔をびたりとくっつけると小さなガラスを隔てた向こう側には布に覆われた壁があった。
なんでこんなもんが私の玄関前にあるんだとますます疑問に思っていると突然壁が喋り始める。

「▓▓▓▓ちゃん開けてよお」

聞き馴染みのある声だった。
しかし同時にあり得ないとどこかの自分が強く否定する。

「▓▓▓▓ちゃん開けてよお」

この声は、この声はかつて高校時代私の先輩だったあの人だ。
間延びした独特の調子、言葉尻が溶けるように下がる糖蜜のような声色は私が知る限り彼しかいない。
でもどうしてここに?今日は、

「▓▓▓▓ちゃん開けてよお」



突如聞き慣れた軽快な音がどこからか流れてくる。
今日はいったいなんなのだ。
扉を気にしながらもベッドの端にいき、目当てのものを見つけると液晶に映る人物名を確認した後右にスライドし耳を寄せる。

「どうし、」
「彼、あなたのことがずっとずっと好きだったの。私と付き合ったのもあなたが振り向いてくれなくてやけになったからって言ってた。きっと嫉妬して欲しかったんだと思う。三時間前、私のところにやってきて急に『オレと別れて』って言われたの。呆れたわ、だって今日は結婚式だったはずなのよ。もう私もしっちゃかめっちゃかになっちゃって、手当たり次第に物を投げたわ。机もゴミ箱も、貰ったアクセサリーも、二人の写真が入ったフォトフレームもアルバムも。マグカップも。でも知っていたの、私は最初から彼があなたのことを好きだったって。それでもいいと思って告白したのも私。最低なのは彼の心の傷に入り込んだ私も一緒だって分かってた。私は彼が好きだった」

矢継ぎ早に言われる自分が知らない話。
彼女は自分すら穿つ錐のように尖った言葉を喉を震わせ吐き出しながも尚も言い募る。

「アクセサリーはきっとあなたに似合う思って買った物だし二人で行ったデート場所は全部あなたが行きたいっていってた場所ばかりだった。悔しくて悔しくて仕方がなかった。怒りに眩んでどんな罵声を浴びせたか覚えてはいないけれど普段は他人のつむじしか見てなさそうな男が土下座する姿は痛快だったわ。でもそんなの晒されたところで私の溜飲が下がるなんてことあるはずはなかった」
「………」

深いため息が一つつかれる。

「けど私は許したの。許すことがあの男と私は違うという唯一の証明だったから」
「▓▓▓▓ちゃんあけてよお」
「なのに、なのに……なのになのになのに、」
「▓▓▓▓ちゃん▓▓▓▓ちゃん▓▓▓▓ちゃん」

耳の奥で響く、ドクドクと流れる血流の音が大きく聞こえて煩わしいったらなかった。



























オレが最低なやつってことはお前らに言われなくても判ってるよ。
他人を利用して貶めて。
それでも喉から手が出るほど欲しくなったものがあった時、オレは我慢の仕方がわからなかったの。
だからこんなつまらない空回りなんてして結局なにもかもうまくいかなかった。
笑っちゃうよね。
どうにもならなくなってあの日の夜、あいつに「オレと別れてほしい」っていったんだ。
空のビールジョッキが割れる勢いでブン殴られたのはクッソ痛かった。
そりゃ結婚式直前でそんなこと言われたら誰だって怒るわ。全部オレへの報い、当然だよね。分かってんだわそんなこと。


あいつが意気消沈した頃
頭から血を吹き出しながらふらふら立ち上がったオレは▓▓▓▓ちゃんの家へ向かった


『先輩、あの子と付き合うことにしたんですか』
『んー?そうだよお……▓▓▓▓ちゃん寂しい?』
『……寂しくないかと言われれば嘘になる気もします』
『え!?ウソ!?!!?』
『私はいつでも素直ですよ』
『ヤ、それはねーけど』
『本当なのに……』
『じゃなくて、…あ、あのさ、▓▓▓▓ちゃんがどーしてもっていうなら』
『先輩』
『んえ?』
『あの子のこと、大切にしてくださいね』

ハイビームの光が視界を眩ませる。
そこからは何も覚えていない。





「▓▓▓▓ちゃん開けてよお……開けてえ」

ボロアパートの一つの扉の前、ずっと前にもぬけの殻になったそこにオレは愛しい女の返事が聞こえるまで今も立ち続けている。

#突然の君の訪問

8/28/2023, 4:11:20 PM