東山桐花(とおやまきりか)、と履歴書に書く。慣れない感覚で手がしびれた。足もしびれた。あぐらをかいた足を組みかえる。
「きーさん」と言って嬉しそうな顔をして私の右に座り込む。いつも腹の底から出ているような声だ。なんだったか。ああそうだ、岸本美久瑠(きしもとみくる)だ。
「はーい。きーさんだよ」
「ふっ、何それ」
美久瑠がニカッと眩しく笑うのは昔から変わらない。短髪にイヤリングが似合う。いつも遠くを見たような涼しい目をしている。女子に人気がありそうな女子だ。
「これに受かったら本当に一緒に働けるね」
私の肩に両手を置いて体重をかけ、履歴書を興味津々に覗き込んでくるのは、浅岡光子(あさおかみつこ)。少し肌が日焼けていて、黒縁眼鏡をかけている。大人しい、と見せかけて三人の中で一番騒がしい奴だ。
「でも二人は別々の部署でしょ?」
知らない人が沢山いる場所でパソコンに向かい合わせになると考えたら胃が痛くなる。また世界が灰色になりかける。
「そうだけど昼休憩とか帰りは一緒だぜ?」
そう言って光子が、風呂上がりでまだ湿っている
私の頭を撫でまわす。
「そうだった。あーよかった」
「どんだけ人見知りなんだか。心配しなくてもそんな悪い人いないから」
美久瑠の包み込んでくれるような優しい言葉に安心する。思わず〝先輩〟と言いそうになる包容力だ。
「たまに取り引き先の偉い人がセクハラオヤジだったりするけど」
「こらっ!!」
「すまん」
光子が余計なことを言うので、美久瑠が叱る。
私が小さなことに一喜一憂したり、行き過ぎた考えになる度に、二人が背中に手を添えてくれる。私たちはこの安くてボロボロな狭い部屋で、衣食住を共にしている。
嫌な夢を見た時はすぐ隣にいる美久瑠か光子に抱きつく。小さなテーブルに同じコンビニ弁当三つを並べる。たまに服を共有したりする。家族同然の存在だ。
<狭い部屋>6.4
NO.10
続く?
こういうのも失恋と言うのだろうか。胸がきゅうっと締めつけられる。僕はあの人に憧れを抱いていたから。でも恋愛感情ではなかったと思う。
あの人はよく無くし物をする。だから無くさないように、結婚指輪をいつもネックレスにしてつけている。旦那さんに言われてそうしたらしい。
時々ネックレスにしていることさえ忘れて、自分がまだ薬指にしていると思って、無くしてないかヒヤヒヤするんだって。
あなたは40代。僕は20代。僕はあなたを無くさないようにする。
メガネの跡と、幸せの証の笑いジワとほうれい線。こうしてよく見ると年相応な見た目をしている。でもいつまでも廃れずに若い心を持っていたんだ。いつまでも。
あなたは永遠に若いままでいて。
<失恋>6.3
No.9
梅雨なんて嫌いだ。ジメジメとして憂鬱にさせてくるから。でも不思議と雨の音は嫌いじゃない。どこか寄り添ってくれているような気がするからだろうか。
田んぼに溜まった水が海に見えた。
朝になって雨が止めば私の住んでいる三階スレスレまで雨水が溜まっていて、腕を突っ込んでかき混ぜれば、機能停止した信号機が揺れる。水溜まりを踏めば、お前の顔が歪むように。
お天気雨という意味での、狐の嫁入り。昔の人にはそれくらい不思議な現象だったのだろう。冷たい雨が日差しで気持ち悪い温度にぬるくなる。あったかいね、って笹沼は笑う。その心は私のものだったんだろう。
かぽっと外して交換したんだ。マウスピースみたいにさ。使う年齢じゃないけれど、そういう感じだ。僕と私と笹沼の心。同じ軽さなのに重みが違う。何故だろう。
水溜まりにうつる笹沼の顔をふみつぶす。「うわあ」と大きな声が不快に脳内に響く。反対にうつる笹沼の顔が歪む。
<梅雨>6.2
No.8
君はいつも会って一言目に天気の話をするね。君は気象予報士でもないのに、天気にすごく詳しいんだ。そのせいで僕も少し詳しくなってしまった。
少し僕も話をさせてね。正直、天気の話はどうでもよかったんだ。それよりも君のことを知りたかった。でも君は上手くかわして、自分のことを話そうとしない。
それは、そこで下手な演技で泣いたふりをしている君の両親のせいか。言ってくれれば君のアザだらけの手を取ったのに。なんて、実際助けを求められたら僕はどうしたんだろうね。
大好きな空と一緒になれて嬉しいかい。ねえ、憎たらしい君。
〈天気の話なんてどうだっていいんだ、僕が話したいことは〉6.1
No.7
湿った空気が重い。酸素が足りなくて頭がくらくらする。重いようで浮きそうで、ここが夢かと錯覚してしまいそうだ。
だばだばと走る。運動は苦手だから、変な走り方になっていると思う。でも今はそんなことを考えている場合じゃない。
いくら全力で走っても、一旦止まって深呼吸をしようとすると、すぐ後ろでコツコツとヒールがアスファルトを打つ音がする。だから走り続ける。
ひゅーひゅーとした呼吸音が私の口からする。今すごく
ブスな顔になってるだろうな。ずっと走り続けたせいで息ができず、咳が止まらない。
立ち止まる。
「もう、やめてよ」
掠れて上ずった声で、追いかけてくる何かに懇願してみる。返事をするように後ろでヒールが〝コツ、コツ、コツ〟と三回鳴る。「い、や、だ」とでも言っているのだろうか。
涙が出る。それでも、ガクガクしっぱなしで今にもその場に崩れ落ちそうな足を一歩踏み出し、走り続ける。右手に、煤けた小箱を握りしめて。
〈ただ、必死に走る私。何かから逃げるように。〉
2023/5.30
No.6
詩というより小説。
heelって悪役って意味もあるらしいですね。書いて投稿したあとから、ヒールって他に意味があった気がして調べて知った。偶然。ヒールは適当に登場させたんですけど、後付けで意味深になった。