〈たまには〉
「俺たちって、そんなに頼りない?」
そんなことを言わせたいわけじゃなかったはずなのに、
いつからか僕は、人を頼ることを忘れてしまった。
家族――。
普通の人には温かく聞こえる言葉かもしれない。
けれど、僕にとっての家族は、ただの赤の他人でしかなかった。
父は仕事をせず、酒に溺れ、挙句の果てには母に暴力を振るう人だった。
中学に上がる頃。
ついに限界を迎えた母は父と大喧嘩になり、
その最中、父と僕の目の前で亡くなった。
その後、ご近所さんが僕を保護し、警察が駆けつけた。
父は捕まり、僕は保護施設へ連れていかれた。
そこから里親が決まり、新しい家族ができた。
父と母、そして兄が二人。
血の繋がりはないのに、新しい家族は僕にとても優しくしてくれた。
最初は意味が分からなかった。
どうせこの人たちも――
そんな嫌な考えさえ浮かんだ。
僕は学校にも行かず、部屋に引きこもった。
反抗だってした。
それでもこの人たちは、僕を追い出すこともなく、ずっと優しくしてくれた。
少しずつ、僕も心を開いた。
学校にも通えるようになった。
そして、ようやく「普通の家族」になれたと思った。
――高校に上がった頃。
夜中、リビングから話し声が聞こえた。
盗み聞きをするつもりはなかった。
でも、そこで聞こえた会話が、僕の考えを変えてしまった。
「母さん、アキトのことだけど……」
「ええ……ごめんなさいね。私がこんなばっかりに、あなたたちには苦労をかけるけど……しばらくアキトをお願いしたいの」
「兄二人に任せるのは不安だが……今回ばかりは頼む」
父と母は、兄二人に僕を任せる話をしていた。
よくは聞こえなかったけれど、
僕のせいで両親は家を出ていくんだ――そう思ってしまった。
それからだ。
僕が、兄たちを避けるようになったのは。
迷惑をかけないようにしようと思った。
昔みたいに。
それから二週間。
僕は風邪を引いてしまった。
最悪だ。
学校に電話をしてもらうには、兄たちに言わなきゃいけない。
でも、それはダメだ。迷惑になる。
昨日、傘を忘れて帰ってきたのが悪かったのかもしれない。
頭は重いし、体もだるい。
外は大雨だった。
これくらいなら学校に行けるかな……。
そう思って痛み止めを飲む。
リビングで朝ご飯を食べていると、
一番上の兄、友也兄さんが心配そうに聞いてくる。
「アキト、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「だ、大丈夫だよ。平気……」
そう言うと、もう一人の兄、湊兄さんがじっと僕を見る。
「ほんとか?」
「ほんとだって! もう学校の時間だし!」
僕は急いで家を出た。
――僕が出たあと。
兄たちは顔を見合わせた。
「母さんたちが出て行ってから……アキト、なんか隠してるよな」
学校では友達や先生に心配されながらも、なんとか一日を乗り切った。
帰りの時間。
僕は下駄箱でうずくまっていた。
もう誰もいない。
前は母さんが弁当を作ってくれた。
雨の日は父さんが迎えに来てくれた。
兄さんたちとも、やっと普通に話せるようになったと思ったのに。
僕がいなければ。
二人は両親と離れずに済んだんじゃないか。
そんなことを考えてしまう。
涙が止まらなかった。
そのとき――
「アキトーー!!」
遠くから声が聞こえた。
顔を上げると、びしょ濡れの兄二人が走ってきていた。
「なんでいるの!? ここ学校だよ!?」
湊兄さんが息を切らしながら言う。
「さっき学校から電話きたんだよ。アキトが無理してるって」
僕は言葉が出なかった。
びしょ濡れになってまで、僕を迎えに来てくれた。
こんな僕なのに。
涙があふれて止まらなかった。
兄たちは慌てていた。
「大丈夫か?」
「いや、大丈夫じゃないよな……」
僕が「大丈夫」と言うと、
友也兄さんがふと聞いた。
「なぁ、アキト。俺たちってそんなに頼りない?」
「そ、そんなわけ……!」
慌てて否定する。
湊兄さんが優しく言う。
「なら、無理するな」
その言葉で、僕は全部話してしまった。
母さんたちの会話を聞いたこと。
僕のせいで出ていったと思ったこと。
兄たちは顔を見合わせた。
「……あちゃー」
そして言った。
「母さんたちは出ていったわけじゃないよ」
そのあと、病院へ行き、薬をもらい、家に帰った。
そこで兄たちは説明してくれた。
僕の実の父親が、またトラブルを起こしていること。
それから僕を守るために、両親が動いていること。
だから、しばらく家を空けているだけだと。
次の日。
体調はよくなったけれど、学校は休めと言われた。
テレビをぼんやり見ていると、湊兄さんが駆け込んできた。
「アキト! 見てみて!」
スマホの画面には、母さんと父さんが映っていた。
久しぶりのテレビ電話だった。
「ごめんな、アキト」
「事情を話さなくて……」
「心配させたな」
父さんが笑いながら言う。
「帰ったら、アキトのしたいこと全部付き合うぞ! 何がいい?」
僕は少し考えて、言った。
「それなら僕、……みんなで遊びに行きたい」
たまには、僕がみんなを振り回してもいいよね。
そう思いながら、僕はとびきりの笑顔を見せた
〈遠くの街へ〉
「さよなら」
――いつもなら君が言わないその言葉に、僕は気づけなかった。
もし、あの時僕が一緒に行くと言っていれば、
君はまだ――
「ねぇねぇ! レオ、聞いてる〜?」
「聞いてる、聞いてる」
「それ、聞いてない人が言う返事!」
昼休みの屋上。
君は口をぷくっと膨らませながら、僕に抗議する。
その顔が可笑しくて、思わずふふっと笑ってしまうと、
「また笑った! 面白くない!」
と、さらに怒られる。
「で、なんの話だっけ?」
「やっぱり聞いてなかったぁ〜」
呆れたように肩をすくめたあと、君は少し真面目な顔になる。
「実はさ、私、卒業後ここに行こうと思ってて。それでレオも一緒にどうかなって……」
そう言って、スマホの画面を僕に見せてくる。
「へぇ……いいじゃん。でも、僕には無理かな」
「えぇ!? なんで?」
「お金ないしさ。両親いないから、早く働きに出たいんだ」
「そっかぁ……」
一瞬落ち込んだあと、君は急に顔を上げる。
「なら、私も全力で違うところ探して、一緒に働く!」
「すぐ働ける場所……働ける場所……」
ぶつぶつ言いながら画面を覗き込む君の横顔を見て、
こんな日々がずっと続けばいいのに、と僕は思った。
――それから数ヶ月。
卒業を少し前に控えたある日、君は遊びに行こうと僕を誘った。
「いいよ。楽しみにしてる」
そう言うと、君はどこかほっとしたように笑った。
当日、君の目は少し赤く腫れていた。
心配して尋ねたけれど、「大丈夫」と笑ってごまかされた。
ショッピングをして、ご飯を食べて、ゲーセンに行って。
帰りに少しだけカラオケにも寄った。
カラオケの帰り道、君が言う。
「なんか、デートみたいだったね!」
驚いて、飲んでいたジュースを吹き出しそうになる。
しばらく無言で歩いていると、突然、君が僕の手を引いて走り出した。
「お、おい……!」
息が上がる頃、ようやく立ち止まる。
「なんなんだよ、お前は……」
そう言うと、君はどこか泣きそうな顔で笑った。
「ありがとね、レオ」
「ステラ?」
近づこうとすると、君は一歩、距離を取る。
「それと、ごめんね。今日、私……違う街に引っ越すの」
……やっぱり。
前に見せてもらった大学の資料。
保護者欄に書いてあった名前は、君の両親だった。
「謝るなよ。仕方ないだろ」
「でも……!」
「元々、君はいい家の子なんだしさ」
その言葉で、また気まずい沈黙が落ちる。
僕たちは昔から、こうなると何も言えなくなる。
「……ごめんな」
そう呟いて、僕は君の前を通り過ぎた。
「バイバイ……さよなら、レオ」
振り返ったとき、君はもう背を向けて走り出していた。
――それ以来、連絡は取っていない。
今ごろ、何をしているだろう。
あの時、「一緒に行くよ」と言えていたら。
君はまだ、隣で笑ってくれていただろうか。
今度の出張先は、君のいる街だ。
これは、謝るチャンスなのかもしれない。
そう思ってしまうのは、きっと後悔のせいだろう。
許してもらえなくてもいい。
顔が見られるだけでいい。
僕は、君に会いに、遠くの街へ向かう。
〈現実逃避〉
アラームが鳴って目が覚める。
バッとベッドから起き上がり、音を止めると、外から雨音が聞こえてきた。
どうやら今日は雨らしい。最悪だ……。
そう思いながら、リビングへ向かう。
少しだけでも何か食べないと、と冷蔵庫を開ける。
意外と色々入っているのは、姉と兄のおかげだろう。
ありがたく牛乳とヨーグルトを手に取り、
テーブルに置かれていた、兄妹のどちらかが作ったであろうパンケーキを頬張る。
食べ終えると、学校へ行く支度を始める。
行きたくないなぁ、なんて思いながらも、兄妹二人に迷惑はかけられない。
子どもの頃。
両親が亡くなってから、兄は大学を辞めてまで、私と姉を引き取ってくれた。
だから、こんな我儘は言えない。
言えるわけがない。
――それでも。
こんな雨の日は、本当に行きたくなくなる。
学校に行く理由なんて、将来職に就くためだし。
どうせなら通信に行けばよかったかな、なんて思ってしまう。
人間関係はもともと苦手だ。
先生にも相談できそうにないし、友達がいればと思うけど、人見知りすぎて、話しかけられるとテンパってしまう。
はぁ……とため息がこぼれる。
毎回、学校へ行く前はこんなことを考えている気がする。
家にいたいな。
どうせなら一日中ゲームしていたい。
ネットの中の私なら、平気でネッ友と会話できるのに。
ネットで大丈夫でも、現実はこれだからなぁ。
あぁ……やばいかも。本当に学校へ行きたくなくなってきた。
もう家を出ないと、ほんとにやばい。
慌てて傘を持ち、行ってきます…と一言、家のドアを開ける。
こうやって、また一日が始まる。
きっと明日も、同じように行きたくないと思うんだろう。
どうせなら、ずっと家でゲームをしていたい――なんて。
私は、今日も現実逃避をしてしまう。
現実はゲームみたいにうまくいかない。
それでも、今日という一日を、少しでも頑張って生きていけるのかもしれない。
……なんて、らしくないことを思ってしまった。
〈君は今〉
「大人になったら、私、パパと結婚する」
――そんなことを昔言ってくれた娘から、結婚式の招待状が届いた。
どこか寂しさと嬉しさが混ざったような気持ちになる。
「あなたったら、相変わらずね」
と、お母さんに笑われてしまった。
そりゃあ、大切に大切に育てた娘が立派になった瞬間は本当に誇らしい。
けれど、まだここにいてほしいと思ってしまう気持ちも、やっぱり大きい。
改めて、結婚式のスピーチで何を話そうかと紙に書き出そうとする。
ペンを走らせるたびに、君と過ごした日々を振り返っているようで、思わず微笑んでしまう。
反抗期の頃は、お母さんに泣きつくほど傷ついたこともあったな。
それでも高校の卒業式で、
「こんな俺と優しいお母さんに反抗しちゃってごめん」
と泣いた君の姿を、今も覚えている。
就職して一人暮らしをすると言い出したときは、正直すごく心配だった。
でも、うまくやっているみたいで安心した。
職場に「いい人がいる」と聞いたときは、さすがにお父さん、驚いたけどな。
そういえば、子どもの頃。
お母さんと「好きな人がいるの?」なんて話をしていたときでさえ、俺は少し驚いていた。
あのとき君は「大人になったら私、お父さんと結婚する!」なんて言っていたな。
でも、お父さんにはお母さんがいるからごめんな。
きっと結愛も、いい人を見つけるさ――
なんて言ったら、君に泣かれて、お母さんには怒られたっけ。
きっとあれは、お母さんの照れ隠しだったんだろう。
これから結愛は、きっといろいろなことにつまずくだろう。
嬉しいことも、悲しいことも、たくさん増えていくはずだ。
でも、その先には、きっとたくさんの幸せが待ってる。
改めて、結婚おめでとう。
書き終えた紙が、いつの間にか濡れていることに気づく。
「あぁ……だめだな。結婚式でうまく話せるかな」
そう口にすると、コーヒーを淹れてくれたお母さんが、そっとハンカチを差し出した。
「きっと、大丈夫ですよ」
その言葉に、俺は「そうだな」と返し、コーヒーを一口飲む。
君は――結愛は、今ごろ何をしているのだろう。
そんなことを、ふと心の中で思った。
〈物憂いげな空〉
学校の帰り道、僕は教室に忘れ物をしてしまい、取りに戻った。
扉を開けると、そこにはいつも無口でクールなことで有名な雨ヶ谷さんがいた。
気づかれそうになって、なぜか僕は廊下の扉の陰に隠れてしまう。
もう下校時間なのに、どうしてまだ教室にいるんだろう。
そう思いながらそっと覗くと、彼女は窓の外を見つめていた。窓の向こうには、どこか重たげな灰色の空。
雨粒が一つ、また一つとガラスを伝っていく。
雨ヶ谷さんは、物憂げな表情でその空を眺めていた。
何かあったのだろうかと、思わず心配になる。
はっとして、自分の目的を思い出す。
そうだ、折りたたみ傘を取りに来たんだった。
廊下の時計を見て、僕は慌てて教室へ入る。
物音に気づいたのか、雨ヶ谷さんが振り向いた。
「まだ誰かいたんだ。どうしたの?」
少し驚いた顔で、そう聞かれる。
「傘を忘れて……取りに来ただけ」
そう答えると、彼女は小さく笑った。
「そっか。私ひとりだったから、ちょっと気まずかったよね。ごめんね」
ロッカーから傘を取り出しながら、僕は迷う。
聞いてもいいのだろうか、と。
それでも気になってしまい、思いきって口を開いた。
「雨ヶ谷さんは、帰らないの?」
「あぁ……うん。帰りたいんだけど、傘忘れちゃってさ」
そう言って、彼女は少しだけ目を逸らした。
少し迷ってから、僕は自分の傘を差し出す。
「それなら、この傘あげるよ。返さなくていいから」
「え、いいの?……ありがとう。君、優しいね」
そう言って微笑む彼女の横顔は、やっぱりどこか物憂げだった。
下駄箱で別れ、彼女は雨の中へ歩き出す。
灰色の空の下、その背中は小さく見えた。
僕はそのまま、雨に濡れながら走って帰る。
あのときの僕は、
きっともう二度と、彼女と関わることはないのだろうと、
そう思っていた__。