《泣かないよ》
始めて会った日、あの子は泣いていました。
あの小さな体からこんなにも大きな声が出るのだと驚きながら、私もまた泣いていました。
多分、あの日が一番嬉し涙を流した日です。
それからも、毎日あの子は泣きました。
朝も昼も夜も、私がどんなに笑っていても、悲しくても疲れていても、あの子はお構いなしにぐずって泣き声をあげました。
どうか泣き止んでと、私は沢山色んなことを頑張りました。今思えば幸福な日々ではありましたが、当時は中々に苦労したものです。
よく私も、一人静かに涙を流していました。
まだまだ小さなあの子と手を繋いで、公園まで散歩するのが私はとても好きでした。
春風が通り抜け、若葉を優しく揺らし、とりどりの花の匂いを連れてきてくれる散歩道。
ある日、目の前をふわりと飛ぶ蝶を追って、あの子は私の手を離して駆け出してしまいました。
あ、と思う間もなく、あの子は砂利の上で転んでしまいます。慌てて駆け寄り抱き起こせば、膝小僧が赤く擦りむけていました。
あの子の目は潤み、頬は赤く、唇はきゅっと引き結ばれています。小石のついた小さな手が、私の服の裾を掴みました。
ああ、泣いてしまう――私も眉をハの字にした時、丸っこい声であの子が、
「お母さん、ぼく泣かないよ」
そう言って笑ったんです。
私の鼻はツンと痛み、視界がじわりと滲みました。
咄嗟に小さな身体を抱き寄せて、ありったけ抱き締めました。
苦しいよ、お母さん。そう言ってきゃらきゃらと笑う声。まだ小さいと思っていた背中は、うんと大きくなっていました。
でもね、この先どれだけあなたが大きくなっても。
痛い時や苦しい時、あるいはどうしようもなく幸せな時。
お母さんの前では我慢せずに、沢山泣いてもいいんだからね。
その時私はきっとまた、あなたを目いっぱい抱き締めるだろうから。
だからどうか、ずっと幸せでいて。
《怖がり》
あの、少し聞いてもらってもいいですか。
私以外誰もいない部屋に、誰かがいるような気配があるんです。ふとした時に、そう感じてしまうんです。
朝、顔を洗ってる時に今頭を上げたら鏡に私以外の誰かが映り込んでいるんじゃないか、とか。
カーテンを開けたら目の前の窓越しに誰かが立っているんじゃないか、とか。
私のベッドの下に誰かが入り込んでるんじゃないか、とか。
そんな笑われてしまいそうなただの思い込みに過ぎない考えなんですが、やっぱりどうしてもそう感じてしまうんです。
元々怖がりな性格という訳ではなかったのですが、多分ちょっとしたきっかけが原因でした。
引っ越ししたての部屋に遊びに来た友達がいたんですけど、何度も何度もしつこく言ったんですよ、あの子。
「誰かいるね、この部屋。絶対いる。見えないけど、こっちのこと見てるね、ずっと。目をまん丸にかっぴらいて、じーっとあんたのこと見てるよ」
ほら、今もあんたの後ろにぴったりくっついてる。
そう言った友達は、最後は「なんて、冗談だよ」と笑いました。私も、やめてよもう、と笑いました。
ただ友達が帰って、しんと静かになった部屋に一人になった時、脳裏に過ってしまったんです。
今振り向いて、誰かいたらどうしよう。
それからは、ふとした時に誰かの気配を感じてしまうようになりました。ほんとう、怖がりですよね私。
でも頭の中で何度も刷り込まれてしまった考えって、中々消せないんですよね。困ったことに。
これって本当に、ただの私の思い込みなんでしょうか。
例えばほら、今この話を読んでるあなたの後ろにも、見えない誰かがいるかも知れません。
見えないけど、気付かないけど、絶対いるものなんです。アレは。目をまん丸にかっぴらいて、じーっとあなたを見ています、今も。
ほら、振り向いてみてください。絶対いるから。
《星が溢れる》
この世界から灯りが消えた。
いや、街も獣も人も、ほとんど同様にだ。
大地が裂け、山が火を噴き、波が全てを呑み込んだ。それから先のことはよく覚えていない。
ただ確かなのは、この世界から明かりというものが綺麗さっぱり消え去ってしまったことだけ。
辛うじて生き延びた僕も、そろそろ同じ運命を辿るだろう。
必死に生き残りや食べる物を探して歩いたけれど、もう限界。夜露に濡れる草っぱらに崩れるように体を投げ出した。僕をここまで育て愛してくれた人たちの顔を思い出し、心の中で謝った。
最後の眠りにつこうと瞼を閉じかけた時、ふと夜空が眩しいことに気づく。
今日までずっと、足元の瓦礫を見下ろしながら歩いていたからか――いや、地上の灯りに溢れた世界でずっと生きてきたからか。
見上げた夜空は、今まで見たこともないほど明るかった。
澄み切った紺青の空に、無数の星光が瞬いていた。
白い星、黄色の星、青白く輝く星。その全てが燦々と煌めいて、暗闇の地上に灯りを届けている。
今まで僕の目には見えなかった小さな星たちが輝き、流れ落ちて、この世界にはっきりと存在を伝えていた。
こんなにも美しいものに抱かれて終わりを迎えられるなら、案外悪くない気分だ。
ゆっくりと、瞼を伏せる。僕の目からもまた、小さな輝きが溢れ出してきらきらと流れ落ちていった。
《安らかな瞳》
ぽっかりとしたその空虚な瞳は、どこか安らかに感じられた。もう像を結ぶことのない、その墨色の瞳。
青空の雲をその目に映して、綺麗だね、と笑うこともない。
枯れた向日葵をその目に映して、残念だね、と悲しむこともない。
降り始めた雪をその目に映して、寒いね、と手を擦ることもない。
隣を歩くあの男をその目に映して、大好きだよ、とはにかむこともない。
僕をその目に映して怯える君は、もうこの世界のどこにもいない。
カラン、と冷たい音がして、濡れた僕の手からナイフが滑り落ちたのが分かった。
足元に倒れる君を見下ろす僕の瞳には、赤い色が閃光のように散らばって、てらてらと眩しく映っている。それでも心はどこか穏やかで、僕のぽっかりとした黒い瞳も、彼女と同じに安らかに映るのだろうと思った。