《馬鹿みたい》
ガス切れてるけどいいの、とあなたが笑いながら手渡してくれた青い百均ライターに、ちょっと頑張ってガスを補充してみた。
使い捨てなのに半ば無理やりだったから、上手くいったかは分からない。
ベランダに出て、クリアブルーなプラスチックを指先でつまむ。
小さく降ると透明な内側で液体が揺れて、明け始めの朝日の空を青色とともに透過していた。
前にあなたが好きな色だと言っていた青色、実はあんまりアタシは好きじゃない。見つめていると何だか文字通りブルーな気分になってしまうから。
幸い空は深い藍色から曙色へと移り変わっていて、この淡いグラデーションの空の色がアタシは一番好きだった。
ポケットから潰れた煙草の箱を取り出して、一つ口に咥える。ハイライト。ゆっくり吸うとラムの甘さがあって好きなんだと、あなたは隣でそう言いながら吸っていた。
今思うと、吸わない人の隣でお構いなしに吸い始めるの大概だなって笑えてくる。
そのせいで、今のアタシは危うくニコチン中毒一歩手前だしさ。
親指を金属のレバーへと滑らせる。ぐっと力を込めるとカチリと乾いた音が鳴った。ガスの漏れる静かな音が、どっかの誰かさんの掠れた囁きみたいに聴こえた。
でも、中々火は点いてくれない。何度かカチカチと弾いたけど点きそうで点かない。まるでアタシみたいだと、センチメンタルな気分になった。
ちょっと頑張ってみたところで、無理なものは無理なのだ。
もういいや、とライターを雑にポケットに仕舞った。
ふう、と溜息をついてからプラプラと唇に挟んだ煙草を弄ぶ。
丁度、山の稜線からやっと太陽が顔を覗かせた。やけ酒を呷って煙草吸って、一体何やってんだろーって最低な夜を過ごした日でも、この光一つで単純なアタシは結構前向きになれてしまう。
でも今は、そんなことよりやっぱりニコチンが吸いたい。
口元の煙草を手に取って、先端を朝日と重なるようにかざす。
太陽の光で火が点けられたらさぞや美味いのだろうと、馬鹿みたいなことを思った。
《夢が醒める前に》
夢を見るのが、好きだ。
念じるだけで空を飛べたり、極彩の花畑を一斉に咲かせてみたり、参考書まみれの狭い部屋を、お姫様みたいな綺麗な部屋にしてみたり。
とにかく自分の望む好きな世界を創り上げ、自由気ままに満喫できる美しい世界に在れる。
私の現実は、あの人がいる限り息をするのも苦しかったから、眠りにつき、夢の世界へと誘われるそのひと時を私は愛した。
今日の夢は、特に良かった。
私が現実を憎むに至った最たる原因を、せめて夢の中だけでもと排除した。
鍵で閉ざされた自室の扉を開け、階段を降り、台所へと向かって刃物を選ぶ。
握ってから、一番刃渡りが長い物だと気付いて少し笑った。
居間の掃き出し窓を引き開け、そして庭で洗濯物を干しているいつもの背中に――ほんの一瞬だけ息を止めてから、真っ直ぐに突き立てた。
短い叫び声と、肉と骨の分厚い感触が不快だった。私を振り向いた瞳は、相変わらず濁っていて醜い。
やがてその背は崩れるように倒れ込み、地面の上でピクリとも動かなくなった。
ようやく、私の世界から消えてくれた。
これこそが一番に望む、私だけの世界だった。
胸に悦び満ちていく。羽根のように軽い私の心臓、夢の世界でしか得られないもの。
愉しい、悦ばしい。この至上の夢から目醒めたくない。
現実を取り戻してしまえば、この酩酊感にも似た幸福は途端に霧散してしまう。
だから私は最高の気分のまま、二度と目醒めないようにと自分の胸へ刃物を突き立てた。
夢なのに、すごく痛いな。
《胸が高鳴る》
一生のうちに鼓動する脈の回数は決まっている――なんて信憑性に乏しい俗説がある。
確か二十億回だったか、そういう寿命の数え方らしい。
勿論僕もそんな眉唾は信じていない。けれど、もしそれが本当だとしたら今頃僕は死んでいるだろう。
「ね、返事訊かせてもらっても……いいかな?」
君が照れくさそうに首を傾げる。
君がお気に入りの曲だと言ってイヤホンを片方渡してくれるたび、電車に揺られながら僕の肩に凭れてくるたび、視線が合うと三日月みたいに目を細めて笑いかけてくれるたび。
僕の心臓は、信じられないほどの速さで全力疾走を始めてしまう。
だから今も。この想いを口に出してしまえば、僕の人生はきっとあっという間に終わりを迎えてしまうだろう。
鼓動はもうラストスパートの終盤で、そろそろ限界だと警告の鐘を叩いている。
でも、それでも。
僕は叫んだ、ありったけを。
そしたら君はいつもみたいに、美しい三日月のように笑って。
その瞬間、
僕の心臓は止まった。
《不条理》
人生というものは「不条理」なんてもので溢れているらしい。
今日、先生がそんなことを話していた。
信心深く平和に生きていた人が、落ちてきた爆弾によっていきなり死んでしまうだとか。
交通ルールを守っていた子どもが、飲酒運転の車に轢かれるだとか。
優しい誰からも好かれている人が、通り魔によって刺されるだとか。
なんか、そんな感じらしい。不条理というものは。
正直私は眠いし難しいしで話はよく分かんなかったけど、学校の帰り道、アイスを食べながら歩いてる時についに理解できてしまった。たぶん、世界の真理とかそういうやつ。
今日はたまたま早起きしたから、ママの不味いご飯を我慢して食べてあげたのに「スマホいじるな」って怒られた。
珍しく早め学校に行って、先生のつまんない授業にせっかく出てあげたのに「遅刻するな」って怒られた。
お釣りはあげようと思って五百円を渡したのに、購買に行かせたアイツはクリームパンを買って来れなかった。売れ切れって、もっと必死に走れよ。この世にはもっと頑張ってるやつが沢山いるんだからさ。
で、帰り道。苛々する気持ちをハッピーにしようとせっかく二段アイスを買ったのに、後ろから走ってきたガキがぶつかってきて、べチャリと地面に落としてしまった。
轢かれてしまえって舌打ちしたけど、腹の虫は全然治まらない。可哀想、結構今日は頑張ってみた私も、美味しそうだったアイスも。
あーあ、ホント、私の人生って不条理だ。
《泣かないよ》
始めて会った日、あの子は泣いていました。
あの小さな体からこんなにも大きな声が出るのだと驚きながら、私もまた泣いていました。
多分、あの日が一番嬉し涙を流した日です。
それからも、毎日あの子は泣きました。
朝も昼も夜も、私がどんなに笑っていても、悲しくても疲れていても、あの子はお構いなしにぐずって泣き声をあげました。
どうか泣き止んでと、私は沢山色んなことを頑張りました。今思えば幸福な日々ではありましたが、当時は中々に苦労したものです。
よく私も、一人静かに涙を流していました。
まだまだ小さなあの子と手を繋いで、公園まで散歩するのが私はとても好きでした。
春風が通り抜け、若葉を優しく揺らし、とりどりの花の匂いを連れてきてくれる散歩道。
ある日、目の前をふわりと飛ぶ蝶を追って、あの子は私の手を離して駆け出してしまいました。
あ、と思う間もなく、あの子は砂利の上で転んでしまいます。慌てて駆け寄り抱き起こせば、膝小僧が赤く擦りむけていました。
あの子の目は潤み、頬は赤く、唇はきゅっと引き結ばれています。小石のついた小さな手が、私の服の裾を掴みました。
ああ、泣いてしまう――私も眉をハの字にした時、丸っこい声であの子が、
「お母さん、ぼく泣かないよ」
そう言って笑ったんです。
私の鼻はツンと痛み、視界がじわりと滲みました。
咄嗟に小さな身体を抱き寄せて、ありったけ抱き締めました。
苦しいよ、お母さん。そう言ってきゃらきゃらと笑う声。まだ小さいと思っていた背中は、うんと大きくなっていました。
でもね、この先どれだけあなたが大きくなっても。
痛い時や苦しい時、あるいはどうしようもなく幸せな時。
お母さんの前では我慢せずに、沢山泣いてもいいんだからね。
その時私はきっとまた、あなたを目いっぱい抱き締めるだろうから。
だからどうか、ずっと幸せでいて。