「かすみさん、少しだけ構って。」
そう言って、彼は少しだけ微笑んだ。
その姿はわが夫ながら、あまりに可愛く、愛おしい。
「いいですよ。」
ソファに座ると、彼はわたしの太ももに頭を乗せる。
「珍しいこともあるものですね。」
「たまには、自分の奥さんに甘えたくなった。」
彼には、よそに多くの女性がいる。
それを了承した上で、わたしは彼とお見合いで結婚したから、
わたしに甘えるなんて思いもしなかった。
普段は、多分よその女性に甘えているはず。
だから、わたしに甘えるなんて初めてだった。
「まるで、源氏の君と大殿の君の夫婦円満な描写みたいですね。」
「うーん、確かに似てるかもね。
でも、ちょっとその例えは哀しいかな。」
「あら、どうしてですか。」
「だって、そのあと大殿の君は亡くなるから。
かすみさんが亡くなる、フラグみたい。」
「まあ、そんな風にわたしのことを想って下さっていたのですね。」
「僕は多くの女性と恋するけど、僕の妻はかすみさん唯一人だよ。」
「ふふ、嬉しいことを言って下さいますね。」
わたしは、彼の黒く美しい短髪を撫でた。
美しさとは、何なのだろう。
私は、よく源氏物語の源氏の君のようだと謂われる。
彼のように、何事にも優れた才覚などは無い。
しかし、彼のように、どんな人にも美しいと言われてきた。
私を好む人は、皆口々に言う。
「あなたの美しさが何よりも好き。」だと。
私の中身を見ず、私の美しさに引き寄せられた人ばかりだ。
私の中身など、彼らの前には存在しないも同然なのだ。
だから、私が彼女らに何をしようと、その容姿の美しさで許されるのだろう。
私は、容姿は優れているだけで実力など無い。
しかし、優遇されて流されて此処まで来てしまった。
その道は、己の実力とは裏腹に自惚れてしまう。
その先は、己の破滅のみ。
どうすれば、抜け出せるのだろう。
どうすれば、人から見てもらえるのだろう。
「容姿に惑わされる人間から離れなさい。
その人は、あなたを見ているのでは無く、
あなたの美しさに魅了されているだけなのだ。」
兄様、私はどうしたら、身内以外の人を信じられるのでしょう。
「すまなかった。
本当にすまなかった。
若き日の貴女への仕打ちを、今、此処に謝罪させて欲しい。」
私は、人を愛することを何よりも恐れていた。
若き日の私は、その自覚さえ無かった。
私の両親の最初の記憶は、浮気性な父を母が責めているところだった。
母は、発狂していた。
『あなたは、いつも、いつも、他の女にばかり目を向けて!』
父は、冷たく突き離していた。
『あなたも、愛人を持てば良い。』
母は、父を心から愛し続けていた。
あれだけ軽々しく扱われながらも、父という男に侮辱されながらも、
いつも変わらず、一途に妻として最期まで愛し続けた。
実の子たる私さえ、その目には映さなかったほどに。
母があれほど父に執着していたのは、
カトリックの教育を受けて、信奉していたのも有ったと思う。
しかし、そのさまは、私の目に狂気として映った。
人を愛するとは、私にとって正気の沙汰では無かった。
「今さら赦しを乞うつもりは、無い。
唯、これだけは信じて欲しい。
私は、妻たる貴女を心から愛している。」
私は、声を振り絞る。
貴女は言った。
「ありがとう、言葉にしてくれて。
でもね、疾うの昔から、わたしは知っていたわ。
貴男は、わたしを心から愛してくれていたことを。」
貴女は微笑み、言葉を続けた、
「貴男は、昔から本当に不器用ね。
だから、可愛いのだけど。
わたしの愛しき人、わたしの生涯に渡り愛し続ける、唯一の人。
わたしの目を見て。」
貴女は、私の輪郭に両手を添える。
「わたしは、もう怒ってなどいないわ。
貴男を赦します。
だから、もう泣いて良いのよ。
だから、もう、わたしを愛し続けて良いのよ。」
涙が一筋零れる。
涙が溢れてくる。
そんな情けない私を、最愛の貴女は優しく抱きしめた。
私は、愛人。
誰よりも、彼を愛してきた。
一途に、一途に、愛してきた。
彼が家に来る時は、いつも夜だった。
華やかなシルクのキャミソールドレスを着て、
艶やかな化粧をして、
甘い声をした。
正直、彼と結婚できると思っていた。
彼は、奥さんより私の方が綺麗だと思っていた。
でも、現実は違った。
彼の奥さんを遠目で見た。
すぐに分かった
遙かなる 予期せぬ早さ 幼子よ われ知らぬうち 巣から飛び去る