「兄上、どうか、私の死を悲しまないで。」
血の海に、彼は浸る。
柔らかく、微笑み、いつものよう私を尊敬の眼差しで見る。
「嗚呼、頑張るよ。」
私は、辛うじて笑みを浮かべた。
「兄上、あなたは私の憧れでした。
例え、理解されなくとも怯まず、
例え、冷遇されても結果で圧倒し、
何があろうと己を信じ、
何があろうと努める。
その姿は、正しく我家を継ぐに相応しい。」
彼は死の淵に漂いながらも、
その瞳は潤み輝きを増し、
彼の表情は、まるで英雄譚を語る子供のようであった。
そして、月日は流れる。
私は、今、死の淵を漂う。
後にも先にも、彼、いや、貴男だけだったよ。
私に、あのような眼差しを向けてくれたのは。
やっと、そちらに行けるようだ。
嗚呼、なんと永き月日だったであろう。
貴男の最期は、一度たりとも忘れられた事など無かった。
私は、血の海に浸る。
永きに渡り、待ち望んできた、死とは、こんなにも穏やかだったのか。
ならば、あの時、私がこの手で最後に貴男を殺めた時、
先代を殺し、兄弟を皆殺し、
我家の悪習という名の代替わりを成し遂げた時、
貴男が何故、いつも以上に穏やかだったのか、
やっと分かったよ。
「我が息子よ、私の死を悲しむな。」
息子は涙を堪えながらも、覚悟を決めた表情をしていた。
私は、瞼を閉じる。
「承知、致しました。」
微かに、息子の声が聞こえた。
わたくしの夫は、ろうそくの灯りのような人だった。
自然の草木を愛で、動物と語らい、楽器を奏でる。
平和と豊かさを心から愛している人だった。
太陽のような輝かしさ、宝石のような華やかさは無くとも、
暗闇を柔らかく照らし、多くの人々を安心させる、ろうそくの灯り。
皆の日々を支え続ける、温かい心遣いのできる人。
本当に非の打ち所の無い、自慢の夫だった。
体調が悪い。
頭が働かない、自分のことで手一杯で何もかもが癪に障る。
やばい、めまいがしてきた。
意識が遠のく。
汗は滲む。
身体は重く、辛うじて動くがとても遅い。
やるべきことは、たくさんある。
なのに、出来ない。
悔しい、やっとだ。
やっと、5年ぶりに薬要らずで体調が安定してきたのに。
多くの努力が実を結んでいたのに。
気候が少し、体調が少し、崩れただけで何も出来ない。
薬を飲んだが、少し飲むタイミングが遅かった。
ただ、それだけ。
それだけのはずなのに、全然効かない。
分かりやすく、発熱してくれたら良いのに。
こんなに自分が理解できず、
こんなに自分が許せないとは考えられなかった。
予想してなかった。
私は、未だに理想に固執していたことに。
眩しく、私に照り付ける。
痛い、心の底で呟いた。
だから、日は嫌いだ。
全てを影という形で浮き彫りにしてくる。
最後に日の光を浴びたのは、いつだろう。
極夜前、もう随分前だったような気がする。
何故、あの人は外で会おうなどと手紙に記したのだろう。
外に出なくとも、私の役目たる多大な職務の処理は全うしている。
外に出なくとも、領地経営に貿易会社などの外部収入はある。
私は、あの人に全く頭が上がらないらしい。
「あら、久しぶり。来てくれたのね、嬉しい。
さて、貴男が昼に外出したのは何ヶ月前なのかしら。」
そこには、カフェのテラス席にて優雅に紅茶を飲む、
若き貴婦人、あの人の姿があった。
「何の御用ですか。」
私は、勧められた紅茶を一口だけ飲み込んだ。
何か、嫌な予感がした。
すると、あの人は微笑み、察しが良いと謂わんばかりに目を細めた。
「貴男に息抜きを。と、言えたら良かったのだけど状況が変わったの。」
あの人は真剣な表情になり、あの人の藤色の瞳は瞳孔が小さくなった。
「貴男の仕える、うら若き弱王と貴男をよく思わない臣下が結託して、
貴男に謀反を企ててるみたいよ。」
私は頭が真っ白となった。
「ふふ、意外ね。貴男が感情を表に出すなんて。」
あの人は、鈴が転がるみたいな声で笑った。
そして、即座に、私へ真剣な眼差しを向けた。
「さっきの話には続きがあって、
謀反を協力を願い出る書状が、わたし宛に弱王の側近の名で届いた。
その意味は貴男なら分かるでしょう。」
「勿論です。私の家は、北に於いて強いと自負しています。
しかし、貴方の家には敵わない。
貴方の家との戦に関しては、特に相性が悪い。」
私は、必死に冷静を装った。
「そう、だから貴男へ知らせたの。」
あの人は、また微笑み、また目を細めた。
「感謝します。」
あの人は、再び目を細めた。
「件は、わたしに任せて。」
私は、意味が分からなかった。
「貴男は、件を知らなかったことにしないさい。」
「はい。」
私は、同意した。その方が立ち回り易い。
「件の事で、うら若き弱王への謁見を許されたの。
わたしは、その場で件を阻止させようと思う。
其処からは、貴男の好きなように為さい。」
あの人は、また鈴が転がるみたいに笑う。
「如何ように冷静を装っても、本来の冷静さには敵わないわ。」
あの人は、いつも私の図星を付いてくる。
「親しくとも離れていたのなら、
親しくとも会話を交わさなくなっていたのなら、
相手の心は離れるものよ。」
あの人は、そう言い残し、優雅に去っていった。
あの人に、又、借りを作ってしまった。
本当に感謝しかない。
件が解決した暁には、あの人へ何か贈ろう。
あの人は贈り物を好まないから、感謝の手紙を贈ろう。
「お方様、お手紙が届きました。」
「あら、ありがとう。」
若き貴婦人は、従者から手紙を受け取る。
そして、手紙の封を開ける。
『あなたのお蔭で、件は早急に解決しました。
また、王とも和解する事ができました。
王宮を頻繁に訪れ、王や臣下たち、他の貴族等と些細なことでも、
言葉を交わようにしています。
王から頼られる事も、少しずつ増えてきたように思います。
改めて、感謝致します。』
「本当に簡略化した手紙ね。
でも、思いの籠った、とても丁寧な手紙。」
若きな貴婦人は微笑み、書斎の抽斗に手紙を仕舞った。
母は、言う。
「何事に対しても、敬意を払える人で在りなさい。」と、
「例え、理解が及ばなくとも、何事にも価値は在るのです。」と。
子どもの頃は、全く理解出来ず苦しんだ。
今なら解るよ。
結婚して気が付いたよ。
妻から言われた言葉で。
「あなたは、私をいつも大切にしてくれる。
お義母さんに会ったとき、そう言ったのね。
そしたら、『良かった。』って、涙ぐんでたの。
その時、あなたが私を尊重してくれる理由がよく分かったの!
お義母さんは、必ず私に聞いてくれるの。
『無理しないでね、嫌だったら、すぐ言ってね。』って。
あなたは、お義母さんに尊重されてきたから、私を尊重してくれるのね。
改めて、あなたと結婚して良かったわ。
こんなに素敵なお義母さんが出来て、私は本当に幸せものね。」
嬉々として、妻は話してくれた。
今思い返せば、いつも尊重されて育った。
行きたい学校があると言えば、大事な仕事であっても休み、
僕の学校見学に同伴してくれた。
やりたいものがあるといえば、何でも習わせてくれた。
当たり前、そう思っていたことは、全て母の努力によるものだったのだ。
もしかすると、こうして愛は形を変えながら受け継がれるのかもしれない。
「お母さん、いつもありがとう。」
僕は、久しぶりに母に電話を通して、感謝を言葉にした。