「これが自転車っていう乗り物なのね。」
「乗れるようになるには、練習が必要なんだ。乗れたら、便利だよ。
風が気持ち良いし、何より歩くより長い距離を進める。」
「ふふふ、とっても素敵ね。わたしも乗れるかしら?」
「その服装じゃ危ないから、乗馬服の方がいいよ。」
「あら、ワンピースはいけないのね。」
青年はしゃがみ込み、ペダルの歯車を指差す。
「この小さい歯車見える?」
少女も、ペダルの歯車を覗き込む。
「うん!見えた。凄く小さいのね。」
「この歯車にスカートの裾が巻き込まれる事故が有ったらしい。
だから、スカートは避けた方が無難だと思う。」
「ふふふ、ありがとう。じゃあ、着替えてくるわ。」
「分かった。ここで待ってる。」
「なに?その楽器。」
「琴っていうの。東方の国の歴史ある楽器よ。とっても綺麗でしょ。」
「ふーん、誰かに貰ったの?」
「ええ、愛するひとから貰ったの。
あのひとは、わたしの好みをよく理解しているひとなの。」
「愛する人って?何人もいるじゃん。」
「清の人よ、彼はとっても優しくて、繊細な文化人なの。」
「ああ、元夫の。離婚したのに、仲良いんだ。」
「互いに望まぬ、離婚だったから。
……様がわたしを祖国に呼び戻したかったから、彼とは離婚したの。」
「色々あるんだね、高貴な人にも。」
「ええ、たくさんあるの。あなたたちにも、たくさんあるようにね。」
「あら?どうしたの、拗ねちゃって。」
「僕より、その人のことが好きなの?」
「そうね…、難しいこというのわね。少し、考えるわ。
うーん、あなたと彼とでは愛情の種類が違うの。
だから、比べられないわ。
彼とあなたのことは同じくらい愛してるの。
これだけは、確かなの。」
「あらら、そんなに頬を膨らませて。
怒らせる気はなかったの、ごめんなさいね。」
吸い込まれるような、淡い紫の瞳。
天女のように微笑む、桃色のくちびる。
白磁器のような、きめの細かい白き肌。
白い絹の羽衣に、紫翠と銀の装飾を纏う、綺麗な貴女。
「わが愛しき人よ。」
白魚の両手が、私の輪郭を包みこみ、
あなたは、私の目を覗きこむ。
『噫々、なんと美しいのだろう。』
私が知りうる、どんな女性よりも、貴女は女性らしい。
貴女は、礼儀正しく、気立ての良い、軸のある、洗練された女性。
貴女に惚れ込まぬ人など、この世には居ないのだろう。
「会いたかった。無事で良かった。」私の眼から涙が零れる。
零れた涙を、あなたは優しく手でぬぐう。
「わたしも、あなたに早く会いたかった。」
もう一度、長く抱きしめられた。
祇園精舎の鐘の声…。
私から数えて六代前の当主は、平家物語を好んで読んでいらしたと、
ひいおじいさまが教えてくれた。
私も中学生の時、習ったので少しだけ覚えている。
諸行無常、か。
私の家は、元華族で富裕層。
決して高いとは言えない家格だが、家筋は良く、権威が在る。
代々皇家とは主従関係であり、天皇に仕える家の中では最も古い。
正直、私には荷が重すぎるし、身の丈に合っていない。
しかし、私は独りでは無いことを知っている。
私には、当主補佐に副当主も居る。
先代も、先々代も、四代前まで生きている。
『荷が重ければ、皆で背負えば良い。』
ひいおじいさまが、私に教えてくれた。
私が当主を継いだ日、
鐘の音が鳴り響く最中、
微笑みながら、そう仰せになった。
だから、私は思い出す。
鐘の音が聞こえると、
平家物語の冒頭と、ひいおじいさまの言葉を思い出す。
その度に唱え、自分に言い聞かせる。
そうすると、不思議と気持ちが軽くなった。
私の妻となる人は、正直誰でも良かった。
妻としての役目を担い、母としての役目を務めてくれれば、
其れ以上は要らなかった。
私の為に用意された、縁談は両親と一族の重役によって選別され、
全部で五つに迄絞られていた。