私の妻となる人は、正直誰でも良かった。
妻としての役目を担い、母としての役目を務めてくれれば、
其れ以上は要らなかった。
私の為に用意された、縁談は両親と一族の重役によって選別され、
全部で五つに迄絞られていた。
晴れ渡った、麗らかな日。
貴男とわたしは、結婚届けに署名し、結婚した。
わたしが貴男と結婚した理由は、家筋が良かったから。
そして、わたしの家の遠縁にあたる氏族だったから。
両家の家格の釣り合いのとれた、普通の結婚。
『女の幸せは、結婚すること。』
祖母や母から何度も聞かされてきた、
この言葉は、わたしの人生においては正しい。
正しく、その通りだった。
わたしは、貴男と結婚して『想う』という満ち足りる心を知った。
わたしは、貴男と結婚して『安心』という余裕ができた。
わたしは、貴男と結婚して『楽』という穏和な日々を得た。
しかし、全ての人々が求めるものでは無いとも感じた。
幸せとは、自分が求める時を過ごすこと。
その時とは、人の数だけ多様に存在するように思う。
だから、わたしはこの言葉を娘たちに掛けない。
幸せとは人の数だけ多様であり、自分で決めるものだと知って欲しいから。
舞の奉納。
沢山の楽器から音が奏でられ、私は音に合わせて舞う。
全身は力を抜き、感覚を研ぎ澄ませる。
舞は靭やかで、柔らかい動きを意識するが、
私は男なので、どうしても女性の舞より硬くなる。
しかし、同時に私の舞は力強く、冴えがある。
それぞれの舞に良さがある。
しゃらしゃらと鈴を鳴らしながら、舞う。
ひらひらと扇子を反しながら、舞う。
ふわふわと羽衣を翻しながら、舞う。
舞を奉納する時、いつも感じる。
まるで、私は人間では無くなったようだと。
不思議と緊張せず、寧ろ、落ち着く。
沢山の奏でられた、美しい音を聴き続けたくなる。
ゆっくりと時が進み、ずっと舞っていたくなる。
ずっと、此処に居たくなる。
夢見心地とは、きっとこの事を言うのだろう。
この時が、永遠に続けば良いのに。
私の今の役目は、戦争を起こさせないこと。または、仲裁すること。
要は外交。国家間の外交とは異なる、個人間の外交。
『調停者』とでも言うのだろうか。
それが、我が家の代々の務めだった。
何時の頃からか、始めていた『調停者』。
記録も曖昧なほど昔に、先祖が流れで始めた務め。
その務めを代々受け継ぎ、我らは努めてきた。
もしかしたら、今の世にはもう必要の無い務めなのかも知れない。
しかし、私は『調停者』という務めを辞めない。
何故なら、私は知っている。我が家の人間なら、必ず教わる。
『正解とは、百年後の世の人間が決めること。
今を生きる人間が決めることでは無い。』
だから、私は続ける。この務めを果たす。
今、私に出来る最善を尽くす。
成果など全く挙げられなくとも、この務めを放棄する訳にはいかない。
先祖から受け継いたものを、後世に伝えるために歴史を紡ぎ続ける。
この『調停者』としての務めを、次の世代に繋げる。
それが今の私に出来る、唯一のこと。
だから、私はこの『調停者』という役を務める。
この『調停者』という務めは、私が後世のために出来る、
最善で在ることを願い、祈る。
いつも通り、地下鉄のホームから電車に乗る。
人混みに紛れながら、誤って肩を相手に当ててしまうふりをする。
その隙に、掏(す)る。
それが、俺の日常。
電車に乗ると、すぐにターゲットを見つけた。
身なりの良い、アジア人の青年。
革製のバッグ、ホワイトのシャツに、ネイビーのスリーピーススーツ、
ブルーのネクタイを締め、袖の裾からはシルバーの腕時計が覗いていた。
彼の服装は、明らかに周囲から浮いていた。
電車の中では、決して掏らない。
ターゲットが降りた駅で掏る。
なぜなら、降りた時に気が抜けるからだ。
大丈夫だったと…、掏られなかったと。
警戒が緩む、その時を狙う。
ターゲットが電車を降りる。
俺は、彼の後ろを歩く。
俺は、いつものようにターゲットの肩の当たったふりをする。
その隙に、財布を掏ろうとした。
バッグから手を抜く瞬間、腕を掴まれた。
そこからは何が起こったか、分からない。
視界が回転し、気がついたら、彼は俺を馬乗りにして、
顎にピストルを突き付けられていた。
『殺される。』と思った。
そして、彼は電話していた。
アナウンスからして、救急番号に電話を掛けていた。
そこから、記憶が無い。
気づいたら、病院のベッドの上だった。
そして、ベッドの隣には彼が居た。
「すみませんでした。」と、彼は謝ってきた。
何故、謝られているのだろうか。
悪いのは、掏る側だろう。
呆然としていると、札束と連絡先を渡された。
「すみません。航空券の関係で、もう病院を出なくては行けません。
何かありましたら、この連絡先に電話して下さい。」
彼はそう言うと、足早に去っていった。
俺、いや、私は彼を見誤っていた。
身なりからして、裕福だから安全な籠の中で育った鳥だと、思い込んでいた。
否、彼は富裕層で貴族だ。籠の鳥に間違いは、無い。
しかし、何か感じた。
金持ち特有の余裕と品の良さに相反するような、
異質なものをピストルを向けられた、一瞬感じた。
容易く人を殺せる側、特有の言葉表せられないほどの何かを感じた。
関わってはならない、本能的に感じるほどの恐怖に駆られた。
彼は、何者なのだろう。
一体、どんな風に生きれば、ああ成るのだろうか。