いつも通り、地下鉄のホームから電車に乗る。
人混みに紛れながら、誤って肩を相手に当ててしまうふりをする。
その隙に、掏(す)る。
それが、俺の日常。
電車に乗ると、すぐにターゲットを見つけた。
身なりの良い、アジア人の青年。
革製のバッグ、ホワイトのシャツに、ネイビーのスリーピーススーツ、
ブルーのネクタイを締め、袖の裾からはシルバーの腕時計が覗いていた。
彼の服装は、明らかに周囲から浮いていた。
電車の中では、決して掏らない。
ターゲットが降りた駅で掏る。
なぜなら、降りた時に気が抜けるからだ。
大丈夫だったと…、掏られなかったと。
警戒が緩む、その時を狙う。
ターゲットが電車を降りる。
俺は、彼の後ろを歩く。
俺は、いつものようにターゲットの肩の当たったふりをする。
その隙に、財布を掏ろうとした。
バッグから手を抜く瞬間、腕を掴まれた。
そこからは何が起こったか、分からない。
視界が回転し、気がついたら、彼は俺を馬乗りにして、
顎にピストルを突き付けられていた。
『殺される。』と思った。
そして、彼は電話していた。
アナウンスからして、救急番号に電話を掛けていた。
そこから、記憶が無い。
気づいたら、病院のベッドの上だった。
そして、ベッドの隣には彼が居た。
「すみませんでした。」と、彼は謝ってきた。
何故、謝られているのだろうか。
悪いのは、掏る側だろう。
呆然としていると、札束と連絡先を渡された。
「すみません。航空券の関係で、もう病院を出なくては行けません。
何かありましたら、この連絡先に電話して下さい。」
彼はそう言うと、足早に去っていった。
俺、いや、私は彼を見誤っていた。
身なりからして、裕福だから安全な籠の中で育った鳥だと、思い込んでいた。
否、彼は富裕層で貴族だ。籠の鳥に間違いは、無い。
しかし、何か感じた。
金持ち特有の余裕と品の良さに相反するような、
異質なものをピストルを向けられた、一瞬感じた。
容易く人を殺せる側、特有の言葉表せられないほどの何かを感じた。
関わってはならない、本能的に感じるほどの恐怖に駆られた。
彼は、何者なのだろう。
一体、どんな風に生きれば、ああ成るのだろうか。
草原に寝そべる。
辺りには何も無く、麗らかな風が年中吹く。
今日は、晴天。
ここでは、公爵家の当主でも、王の従兄弟でも、富豪でも無い、
ありのままの自分で居られる。
ここでは、華美に着飾らなくても、厳しい作法を徹底しなくても良い。
ここだけは、自分の好きな格好、自分の好きな姿勢で居られる。
そよ風が私の頬を優しく触れ、草花は私を癒やしてくれる。
いつも通り、私は草原に寝そべり、顔に軽い読み物を乗せる。
ものの数十秒で、顔に乗せた軽い読み物は浮き上がった。
いや、持ち上げられたのだ。
眩しくて、私は目を細める。
「よぉ。」
低い青年の声がした。私は、この声の主を知っていた。
「王よ、何をするのですか。」
「ここでは、王と呼ぶな。休暇くらい、王の冠を取らせろ。」
「分かったよ、ルイ。」
「おっ、やっと俺の名前を呼んだな。それで良い。
従兄弟のおまえくらい、俺の名前を呼んでくれ。」
「で、何しに来たの?」
「ランチ出来たってさ。」
「メインは?」
「チキンのステーキ。」
「了解。じゃあ、食べようかな。」
私は、起き上がる。
「カミーユ、おまえいい加減、偏食治せよ。」
「うるさいなー、治そうと思って治るもんじゃ無いんだよ。」
私は立ち上がり、ルイと一緒に別荘に戻った。
光沢のある白いシャツに、紺色の小紋柄のネクタイ、
紺色の襟なしのベストの上には、紺色の無地のジャケット。
髪型は、上品なオールバック。
色白い端正な顔立ち、青年だった。
私が齢十八頃、親の薦めで半ば強引にお見合いをさせられた。
相手の家は、私の家よりも高貴な家格と血筋を持つ家で、
正直、私の家とは不釣り合いの見合いの席だった。
「很高兴见到你,我叫蔡 礼静。
(初めまして、ツァイ・リージンと申します。)」
彼は、澄んだ声で静かに名乗った。
こんなに穏やかな声の男性は初めてで、私は内心とても驚いていた。
そして、同時に『ああ、この人は本当に優しい人なのだな。』と、直感した。
「我也很高兴见到你,我叫胡 思涵。
(こちらこそ、初めまして、フー・スーハンと申します。)」
この方に自然と合わせて、私は優しい声で名乗った。
途切れ、途切れの会話ではあったけれど、彼との会話は心地良かった。
私は漢詩が好きだと言うと、彼も漢詩が好きだと教えてくれた。
流れで、庭園に咲いていた梅の花で、互いに漢詩を詠んだ。
彼は、私の詠んだ漢詩を絶賛してくれて、本当に嬉しかった。
この時、初めて漢詩が得意で良かったと思えた。
その後、彼との見合い話は順調に進み、今は彼と夫婦となった。
今でも彼は昔と変わらず、優しく穏やかで静かでありながら、
今では、揺るがぬ軸が在るように思う。
そんな夫のことが、堪らなく愛おしい。
いつも、ありがとう。そして、あなたを誰よりも愛しているわ。
あなたを愛する妻より
窓を開けようとした時、一瞬だけ小さく白い光が見えた。
窓を開けた瞬間、私の左肩は紅く染まった。
ゆっくりと血飛沫が空中に舞い、遅れて強烈な痛みが走る。
私は、衝撃で後ろに倒れる最中であった。
噫々、此処が私の最期の場所か。
悪くない、むしろ良いくらいだ。
生家で死ねるなんて、夢にも思わなかった。
まだ、実感が湧かない。
幾度も死際を潜り抜けてきたから…だろうか。
いつもなら、逃げ切れると確信する。
しかし、今回は違う確信が頭を過ぎる。
『死』の文字が、何度も頭を過ぎる。
熱かった左肩は、徐々に冷たく、左腕の感覚は無に等しい。
ガチャ…、玄関のドアが開いた音が聞こえる。
トン…、トン…、トン…。倒れている私に、足音が近づいて来る。
カチャ…。ピストルのロックを外す音が、左から聞こえた。
「さらば、哀れな者よ。」男、否、青年の冷たい声が聞こえた。
まだ若いのに、その腕前か。
なんと、世界は不平等なのだろう。
バン…。ピストルを発砲した音を最期に、私の意識は事切れた。
品の良い、しかし、何か蠢くものを感じる微笑みを貴女は浮かべる。
美しく、儚げで、聡く、穏やかな貴女。
貴女のような人を、きっと妖艶というのだろう。
貴女が私のもとを去ってからは、すべてが灰色だ。
貴女さえ居れば、もう他には何もいらない。
貴女が望むものなら、何だって叶えよう。
私のすべてを貴女にだったら、捧げていい。
だから、どうか、戻ってきて欲しい、私のもとに。
純白の肌、月白の髪、紫翠の眼を持つ、そよ風みたいな貴女。
キャペリンとワンピースを好み、とても似合っていた貴女。
生涯で貴女ほど、愛した人は他に居ない。
今でも忘れられない、否、決して忘れたくない。
私の初恋の人。
「さようなら、わたしが最も愛した人よ。」
貴女はそう言って、私のもとを去っていった。