私の母は、そよ風みたいな人だった。
月白色の髪を一本の三つ編みにして、紫翠石みたいな綺麗な目をしていて、
白磁器みたいなすべすべした温かい肌で、よく私の頭を撫でてくれた。
私には、たくさんの兄弟姉妹がいたけど、皆、一人ひとりを見てくれた。
母は仕事が忙しくて、あまり家に居なかったけど、
私たちの面倒を見る人たちが、たくさんいて、その人たちが色々してくれた。
母は、よく私たち一人ひとりを抱きしめて『世界一の宝物』と言っていた。
それを言われると、私は嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。
たくさんの愛情を注ぎ、時には諌め、よく褒めてくれる、そんな母だった。
時は経ち、旅立つ頃に成った。
その時、気が付いた。いや、ずっと…どころか、違和感が在った。
何故、そんなに若いのだろう…と。
何故、そんなに仕事を教えてくれないのだろう…と。
何故、容姿が全く似ていないのだろう…と。
そう、母と私では…どう考えても年齢的に親子では無いこと。
そして、私は後に知ることになる。
本来なら、赤子の頃に家族と共に秘密裏に処刑されていたことを。
当時処刑人だった、まだ子どもだった母が、私を匿い、戸籍を変え、
私が成人するまで育ててくれたことを。
そして、私の実の家族を処刑した人でも、在ったことを。
もし、あなたが最低な人だったら、激怒し、恨むことが出来たのに。
もし、あなたが沢山の愛情を注いでくれなかったら……。
あなたは、私の家族を殺した人。
そして、あなたは…誰がなんと言おうと、唯一の私の母だ。
血の繋がりは、無い。
でも、あなたが私に沢山の愛を注ぎ、育ててくれたは、何一つ違わぬ事実だ。
だから、私は…あなたを…母を…赦す。
だから、私は…これまで通りに母に接する、大好きな娘として。
『─親愛なるお母さまへ
本当のことを話してくれて、ありがとう。
これまでも、これからも、あなたのことが大好きな娘より』
『あなた、いってらしゃいませ。』
どこか儚げな、優しい妻の声。
『おかえりなさい、あなた。』
どこか嬉しそうな、優しい妻の声。
『誰よりも、あなたをお慕い申しております。』
どこか凛々しさのある、優しい妻の声。
ゆっくりと瞼が開く。
私は病のとき、いつも夢を見る。
今迄は、悪夢が多かった。
しかし、今日は違った。
夢に出てきたのは、妻だった。
「目を覚まされましたのですね、良かった。」
そよ風のように、優しく穏やかな妻の声。
嗚呼、安心する。
「嗚呼。」と、私は応える。
私の額に、手をあてる妻。
その手が少し冷たくて、心地良かった。
「微熱程度まで下がりましたね。」
どこか、安心したような妻の微笑。
ああ、良かった。心から笑ってくれた。
私のせいで歪む、妻の表情ほど辛いものは無い。
「病の時くらいは、しっかり休んで下さいね。いつも、激務なのですから。」
「嗚呼、そうする。有難う。」
私は、ゆっくりと瞼を閉じる。
ここから、記憶は無い。
目が覚める。
寝台にもたれるように、妻は寝ていた。
頬には、涙の流れた跡があった。
夫の看病など、召使いに任せればいいのに。
妻を寝台に寝かせ、掛け布団をそっと掛ける。
嗚呼、本当に…私には勿体ないほど出来た人だ。
「有難う。いつも言えないが、私も誰よりも…あなたを愛している。」
そう言って、妻の髪を耳に掛けた。
気のせいか、少し妻の表情が微笑んだように想った。
紙飛行機を飛ばす。
風に乗り、進む。
しかし、しばらくすると落ちてきた。
ここで諦めず、もう一度、紙飛行機を飛ばす。
たぶん、こういう人は何度も立ち上がる。
何度…転んでも、何度…失敗しても、起き上がる。
生きることを諦めないのだろう。
私の友人のように。
彼らは、決して、最後まで生を…生きることを諦めない。
何が在ろうと、最後まで最善を尽くす。
例えば、紙飛行機をより長い距離飛ばしたいとしよう。
多くの人は、まず紙飛行機の飛ばし方を工夫するだろう。
しかし、それでは何の変化も無かった場合、多くの人は其処で諦める。
しかし、彼らは違った。まずは紙飛行機の設計を見直した。
決して、諦めることが悪いという訳では無い。時に、諦めは必要だ。
ただ、諦める前に最善を尽くすことが大切なのだ。
もしも、あの時…こうしていれば。
もしも、あの時…ああしていれば。と、過去を悔やまぬ為に。
年寄りの説教は、終わりにしよう。
要は、太陽の下で堂々と生きよ。早々に生きることを諦めるな。
胸を張り、しっかり呼吸してみよ。
案外、人生は面白いぞ。
編み物は、本当に複雑だ。
私には、気が遠くなる。
でも、あの人の為なら……頑張れる。
やはり、どこか不格好。
お義母さまや義叔母さまのような均等な編み目も、
鮮やかな色彩に繊細な模様も、私には未だ出来ない。
悔しい。あー、もう暖炉で燃やしたい。
でも、それはしない。
何故なら、この不格好な編み物の完成を待ってくれる人が居るから。
これの何が良いのかしら。
私には、分からない。
ふふ、我ながら上出来でしょう。
セーターを優しく、抱きしめる。
来年も、また作ろう。
そしたら、少しずつでも上達するだろう。
来年も、又、あの人の故郷に行こう。
そして、お義母さまや義叔母さまに習おう。
ふふ、本当に楽しみ。
ああ、幸せ。
なんて、幸せなんだろう。
今日も、あの人の帰りが待ち遠しい。
息を深く、吸う。
息を吐きながら、中段に刀を構える。
眼の前の相手は、私と互角の強さ…いや、私より強い。
此れは、一騎討ちなのだ。
少しだけ、心と身体をつなぐ糸を切る。
かつての、痛みを感じぬ身体に戻す。
この糸を完全に絶ち切っては、ならない。
絶ち切ってしまうと、そう簡単には…つながらない。
最初は、相手の出方を見る。
相手の攻撃を受け流しながら、相手の隙を伺う。
私の動きは、ゆっくりだ。
徐々に間合いを詰めていく。
その間、私は仕掛けない。
相手の集中が切れた、その時、相手の防御に隙ができる。
相手は、私のゆっくりした動きに慣れている。
そうすると、隙を突く、速い動きには…付いて来れなくなる。
そこを狙うのだ。
速さの濃淡と、でも言うのだろうか。
私の刃は、相手に届いた。
相手の肉を削ぐ、音、香り、感覚が……鮮明に脳裏に焼き付く。
相手の胸から腹にかけて、深く斬った。
相手の表情は、穏やかなものだった。
「安らかに眠れ。」
他に、なんと声を掛ければ……良いのだろう。
私は、首切り処刑人だった。
人を殺すことには、慣れている。
しかし、言葉に表せられぬ、気持ちが湧き出て……止まらない。
思考が停止する。気持ちを切り換えねば……。
嗚呼、そうか、初めて罪のない人を殺したからか。
もしかすると、これが俗に言う、罪悪感なのかもしれない。