美しく舞う。
その人は、凛としていて……誰よりも、泰然自若な人だった。
たとえ、なにをいわれようとも、いつも、己の正しさを貫く人だった。
舞いは、その人の全てを映すと思う。
舞いをどれだけ努めたか、どれだけ表現したいか、どれだけ想っているか。
だから、舞いには……その人の思いが籠もる。
その人の舞いは 力強く、かろやかで、やわらかい。
そして、指先から爪先の細部まで、美しい。
決して、観客を退屈させない……それどころか、魅せられる。
その人の舞いには、人を惹き込ませる力が在った。
恐らく、それほどまで、その人は……舞いに命を賭けているのだろう。
たった一つ、その振り付けに 鮮烈な思いを籠める。
いつか、必ず…わたしは、貴方とともに舞う。
それが、わたしの夢だった。
運が良い。それは、生まれながらに在ると思う。裕福な家に生まれたり、
良い親の元に生まれたり、『運が良い』の基準は人により…様々だろう。
どうしようも成らないことは、この世に沢山在る。
恐らく、どんなに時代を経ても、種類は変われど、ずっと残り続ける。
でも、困難を乗り越えた先に学べることは多い。
だから、苦労して、努力して、成功した人は、口々に『私は、運が良い』と
言うのだろう。
私は、まだ、『運が良い。』とは、到底、言えそうに無い。
私は、まだ、私より苦しみ…乗り越えた人を、この目を通して
見たことは無い。
私は、まだ、私より苦しんだ人を聞いたことは…無い。
内心、分かってる。
見聞きしたことが無いからと言って、存在しないことには…ならない。
私が見聞きした事が、全てでは……無い。
でも、どうしても、まだ、飲み込めないのだ。
頭では分かっていても、感情が追いつかないのだ。
きっと、私は……まだ、無知なのだ。
だから、まだ認められないのだ。
私より、苦労してきた人々のことを……。
私は、世間知らずの只の子どもだということが、まだ認められないのだ。
人生は、退屈だ。
物語の主人公たちのような優れた才能も、悪に対抗するほどの志しも、
和多志は持っておらず、周囲に流され、生きてきた。
和多志は、凡人。
其れは、兄様や弟たちを見ていて、幼いながらに感じた。
兄様のような聡明さも、弟たちのような優れた身体能力も、
和多志は持ち合わせて居なかった。
だからと言って、不幸では無かった。
若き時は、兄弟たちの持つ天賦の才が羨ましくて……堪らなかった。
幼き頃、兄弟の中で……和多志にだけ、優れた才が無いことに苦しんだ。
大人になり、気がついた。
優れた才が無いからと言って、人の価値が決まらぬことに……。
だから、理想の自分に成れないことを、恥じなくて良いことに……。
例え、理想の人生を歩めなかったとしても、それを恥じなくて良い。
一日一日を精一杯…生き抜くことは、決して…容易なことでは無い。
苦しくとも…辛くとも…生きてきた和多志や貴方を、何よりも誇って良い。
苦しみを生き抜いてきた、和多志や貴方なら……。
きっと、大丈夫。
和多志や貴方の生きる明日は…、未来は…きっと明るい。
和多志は、そう信じてる。
壁一面の本棚には、ぎっしりとすみずみ迄、本が隙間なく詰められている。
一人しか座れぬほどの大きさの座卓は、窓に面していた。
当時には、珍しく…畳ではなく、板が敷き詰められていた。
障子越しに通る光は、僅かで薄暗かった。
座卓近くに、高く書物が積まれていた。
しかし、決して乱れては居らず、むしろ整頓された印象を受けた。
住人の匂いは無く、僅かにイグサの香りと鉄の香りがした。
極めて清潔で、洗練された部屋だった。
この部屋の住人は、かつて…拷問を生業にしていたと、誰が思うだろう。
彼は、かつて『かがち』と呼ばれていた。
幼少の時より、拷問を仕込まれ、童の頃から才の片鱗を見せていた。
ひどく大人び、冷酷に淡々と仕事をこなす子どもの姿は、なんとも異様で、
恐ろしかったと云う。
だから、人々は口を揃えて…こう呼んだ。
『輝血(かがち)』と。
八岐の大蛇の目のように、赤く染まり輝く…鬼灯の実のようだと。
そして、彼は若君と出会う。
若君は、全くと言っていいほどに、彼を恐れなかった。
彼を気に入り、人間として、友人として、信を置く側近として扱った。
しだいに、彼は無表情だが感情が豊かになり、人間みを取り戻していった。
やがて、彼は多くの部下から持ち、信頼され、尊敬される人間と成った。
若君には、慇懃無礼な態度だったが、そこが気に入られていたと云う。
生涯に通し、若君に忠を尽くした彼。
この部屋は、彼が若君から最初に与えられ部屋だった。
その後、様々な功績から屋敷を与えられた。
しかし、生前の彼は、この部屋を手放すことは無かったと云う。
最愛の人は、今日も此処を後にする。
「またね、あなた。」と、私の耳元で透明感のある…優しい声が囁く。
今日も貴女は、私を深く抱きしめる。
「ああ、また。」と、私は今日も云う。
「身体に気を付けね。」
「ああ。気を付ける。」
今日も又、貴女は家族のもとへ帰る。
もう少し…私のそばに居てほしい。
もう少し…私に振り向いてほしい。
もう少しだけ…、私を愛してほしい。
わかっている、私の願いは、叶わない。
でも、愛して欲しかった。
唯一、心から愛する貴女に。