最愛の人は、今日も此処を後にする。
「またね、あなた。」と、私の耳元で透明感のある…優しい声が囁く。
今日も貴女は、私を深く抱きしめる。
「ああ、また。」と、私は今日も云う。
「身体に気を付けね。」
「ああ。気を付ける。」
今日も又、貴女は家族のもとへ帰る。
もう少し…私のそばに居てほしい。
もう少し…私に振り向いてほしい。
もう少しだけ…、私を愛してほしい。
わかっている、私の願いは、叶わない。
でも、愛して欲しかった。
唯一、心から愛する貴女に。
天から、雫が落ちてくる。
まだ雨足は弱く…傘を差すのを、ちと…躊躇った。
土は多くの水を含み、道が泥々していた。
卸したての靴には、多くの水気を含んだ…砂利と泥がへばり付く。
高値を叩いた靴に傷が付き、汚れると思うと…何気に落ち込んだ。
水は、大地を潤し…豊かにする。
大地が豊かに成れば、戦は起きにくい。
戦が起きなければ、その地の住人は…故郷を追われない。
土地を追われ無ければ、物盗りに成らずとも…生活することが出来る。
物盗りが減れば、その地は…治安が良く為る。
治安が良くなれば、その地は経済的に豊かになる。
経済的に豊かに成れば、その地は発展する。
だから、少し靴や裾が泥で汚れたぐらいで、機嫌を悪くしたくないものだ。
まあ、それは…もう少し先のことに成りそうだ。
どうやら、和多志が大人になれるのは、もう少し先らしい。
いつかは、ちょっとした災難も笑い飛ばせたらなと思った。
鳥のように成りたい。
自由に、大空を統べる鳥のように。
賢く、力強く、優雅に羽ばたく、鳥のように。
鳥だったら、足枷が在ろうとも、遠くへ行ける。
鳥だったら、なにものにも、縛られない。
鳥には、鳥の世界が在る。
きっと、私の思うような世界では……無いのだろうな。
正直、羨ましい。
何よりも、自由で居られることが……。
浅ましいことは、わかっている。
自由とは、それだけ多くを背負う。
だから、身軽とは訳が違う。
もし、生き方を選べたなら………。
一度だけ、鳥のように………自由で美しく、鮮烈に生きたいものである。
繋がり、縁、etc……
女は、それらが何よりも、嫌いだった。
なにせ、それらに常に振り回されてきたからだ。
ただ、生きているだけ。ただ、少々他者より秀でたものがあるだけ。
それだけで、命を狙われた。
だから、努めた。自分の持つ、全てを……。嫌っていた、それらまでも。
しかし、それはもう……『わたし』では無かった。
動物を愛していた…、民を愛していた…、親しき人々を愛していた…、
この国を愛して……やまなかった、
『わたし』は、もう……居なかった。
そこに居たのは、……薬を手放せない、常に仮面を被り……役を演じ続け
……他者の隙に漬け込み、他者を操り、利用し、切り捨て続けた、
空虚で、哀れで、滑稽な女だった。
そして、気付いた。
わたしの器では……、わたしのような者は……、
この地位は……、この権力は……、持たぬ方が良いことを……。
このように、成り果てた。
それは、何よりの証拠だと云うことを。
だから、愛しき……あの子に譲ろうと思った。
あの子なら、きっと……大丈夫。
あの子なら、この地位を……、この資産を……、この権力を……、
わたしの名を……、わたしの全てを……、有するに相応しい。
私とは違い、あの子は芯がある。
竹のように靭やかで、睡蓮のように泥の中でも咲き誇れる。
そんな人に、きっと成れるだろう。
暗闇が怖かった。
日が暮れるのが恐ろしくて……、一時期は夜に寝つけぬほどだった。
恥ずかしながら、今でもやはり一人だけの夜は怖い。
ただ、昔から冬の夜の空は好きだった。
幼い頃、いつも母に車で迎えに来てもらっていた。
その時間帯の冬は、もう訪うに日が暮れ、辺りは夜のように暗かった。
駐車場から家までの少し歩く距離の道。
空を、見上げる。
其処には、ネオンブルーのアパタイトが細かく砕け、
金青色の夜空、いっぱいに散らばり……輝く、数多の星。
その光景は、冬の厳しい寒さを忘れるほどに、脳裏に深く焼き付くほどに、
鮮烈で、美しかった。