わたしは、過去に心を捨てたことがあった。
その当時のわたしには、心は不要だと思っていた。
わたしと近しい心のある人間は、みな苦しんでいた。
心ある者ほど薬に溺れ、亡くなる者や自殺を選び、亡くなる者が多かった。
何故、早々に心を捨てなかったのだろう。わたしたちは、武器だ。
此処では、能力が全てだ。能力が無ければ、殺される。
人を殺す時、感情が邪魔をして、より一層相手を苦しめると思った。
しかし、それは違った。
わたしの主人となった女性に、初めて教わったことだった。
彼女は、どんなに苦労しようとも、心を捨てなかった人だった。
彼女は、強かった。心があるからこそ、生きることを諦めなかった。
心があるからこそ、多くの人々の声なき声に耳を傾け、寄り添った。
多くの人々に、分け隔てなく愛し、愛され、喜びを分かち合っていた。
『化け物』と呼ばれていた…わたしに沢山の愛情を与え、心の大切さを教えてくれた人だった。
「私の側にいて、今日だけは。」と、男は泣きそうな、掠れた声で言った。
「貴方は、本当にかわいい人ね。いつもは、ツンとして…強がりさんなのに、時より甘えん坊。ふふ、まるで猫みたい。」
女は、男の顔の輪郭にそっと両手を添え、目を伏せて、そっと互いのおでこ
をくっつけた。
「…。」男は、女に膝枕をしてもらい、女の腹に男は顔をうめた。
「良いわよ。たくさん甘えて…、誰にだって甘えたい時はあるもの。」
女は、男の髪を優しく撫でる。
男には、語れぬような苦しい過去と記憶が在った。
その後遺症で、男は時より苦しめられた。
男は、もう薄れて、微かとなったラベンダーの香りを嗅いだ。
男は、女とその香りが好きだった。
かつての辛い記憶の中から、覚ましてくれるから。
男は、ゆっくりと気持ちの波が穏やかになったことを感じた。
男は、女をそっと抱きしめる。
女も、また男を優しく、深く抱きしめた。
『貴方は、完璧で在りたいみたいね。
弱みが在っても、良いじゃない。
その弱みに、救われる人が少なからず、いるのよ。
…わたしも、その一人。
だから、生きてね。
辛き記憶に惑わされないで。
そして、いつか…過去の自分に言ってあげて。
生きていて、良かった。って、約束よ。』
この香りを嗅ぐと、男は思い出す。その言葉を。
疾うの昔の話しである。
私の父には、多くの側室がいた。全て、政略結婚だった。富豪の娘に、上級貴族の娘、大臣の娘…など、有力な家ばかりとの繋がりを持つためだった。
彼にとって婚姻とは、その家の力と弱みを握る手段でしか無かった。
そんな彼は、遂に正室を迎える。その女性は、階級の中でも最下層の出だった。当時には珍しい、恋愛による格差の結婚だった。そして、彼は正室の彼女しか、生涯愛さなかった。彼から唯一、寵愛を注がれた女性。それが、私の母だった。
多くの側室が居れば、子も多い。私には、腹違いの多くの兄と姉が居たが、正室の子の私が嫡男となり、家督を継ぐこととなった。
つまり、そう…。感の良い方はお気づきの事だろう。
私の子ども時代は、地獄と化した。
私が幼少の時に、母は病に伏し、若くして亡くなっていた。
そんな地獄にも、希望があった。一部の兄弟が、私の味方に付いたのだ。
それにより、勢力争いを勝ち抜き、生き残ることが叶ったのだ。
兄弟たちが隣国に嫁いだ、その後も文通による交流は続き…、その兄弟たちとは、再会の約束を取り付けることに成功した。
待ちに待った今日、ドアのベルと再会を喜ぶ、音が玄関ホールに響き渡った。
一瞬、冷たい雫が肩に落ちた。一粒、一滴、と肩を掠めた。しだいに、落ちて来る間隔が狭まって来た。驟雨だ。
和多志は、足速に軒の下に逃げ込んだ。
今日に限って、笠も、和傘も、持っていない。最近、日照り続きで油断した。
妻の言葉を聞けば、良かった。やはり、女性の勘は鋭い。男の和多志は、勘は当たらぬことが多いが、妻や和多志の身近な女性は、みな、よく当たる。
なんとも、不思議だ。きっと、女性にしか分からぬ、世界が在るのだろう。
変な意地は、捨てるに限る。と、改めて反省した。
………用事は、終わった。後は、妻の待つ家に帰るのみ。
妻への土産は、何が良いだろう。…これ又、妻の得意分野だ。
その時々で、妻に頼む…贈り物は、いつも相手方に好評だった。
今日は、妻の細やかで繊細な気遣いと、凄さに気付かされる…良い日だ。
妻に土産を買い、青い切符を手に、二等車両に乗り込む。
座席に深く腰掛け、新聞を広げながら、今朝の件の謝罪を考える。
潔く腹を決め、家までの帰路に立った。
私は、落ちこぼれだった。
兄のような聡明さも、弟のような天賦の才も、双子の弟のような優れた五感も、私は、持ち合わせて居なかった。
でも、それでも、良かった。
母たちは、よくこう言ってくれたから。
「貴方には、忍耐力がある。その才能は、目に見えた結果を出しにくい。
でも、時を経て成熟すれば、誰にも負けぬ武器と成るから。そんなに、自分を卑下しないのよ。」と。
でも、時は待ってくれなかった。
ある日、父が暗殺された。母たちは、私たち兄弟を追手から逃すために亡くなった。逃げる最中、兄と双子の弟は、夭折した。
逃げ続ける以外、当時は何も出来なかった。
弟を安心させるために、よく微笑むようにした。かつてのように…。
家族を思い出し、安心させるために。
本当に…其れしか、出来なかった。何も出来なかった。
『これ以上は、守り切れない。』そう感じた。
だから、此処より幾度も遠い、南西に向かう船に乗せた。行き着く先の国は、どんな国かも分からない。此処よりはマシだと…、祈ることしか、私には出来なかった。今生の別れだと…、諦めるしか無かった。
八百万の神よ、先祖よ、弟をお守り下さい。どうか、少しでも、弟の人生に幸と、安らぎが訪れますように。