「心の中の風景は」
小説を書くとは、心の中を文字で表現する事だ。
心にある風景は、本人にしか読めない文字のようなものだ。それを共通言語に変換し、他人にも理解できるようにする行為。それが小説を書くと言うことだろう。
私という人間を構成する心の中の風景を知ってもらうだけでも嬉しいのに、それが評価され、誰かを楽しませたのならばなお嬉しい。
だから書くことは止められない。
たが、いい文を書こうとすれば壁にぶつかる。
それが自身の表現力の限界だ。
私の心の中の風景は、こんなものじゃない!
もっと美しく、神々しいものなのに!
こんな文じゃそれが伝わらない、と。
壁を乗り越えるには、心の中の風景と向き合い、表現力を磨いていくしかない。
こう考えると、小説を書くという事は、心の中の風景をスケッチする事なのかもしれない。
「夏草」
都会の喧騒に疲れた時には、山を眺めるといい。
山には命が溢れている。
人が溢れている都会には、沢山の命を感じるが、山のそれは都会とまた違う。
まず山に足を踏み入れて感じるのは、圧倒的な自然の威圧感だ。
そこには、我らが御先祖が崇めた神性の残滓が、今でも残っている。
その神々しさを見に浴びるだけでも、普段の自分の悩みがどれだけちっぽけなものであるかを知れるはずだ。
「ここにある」
生きる事に意味はあるのだろうか。
今私達が生きているのは、先人達が生きたからだ。
きっと私達も先人達に習い、自分の生を全うし、死んでいくのだろう。
果たしてそこに意味はあるのか。
この輪廻にいずれ終わりが来るのか、仮に終わりが来るとして、いつか終わるとわかっているものに意味を見出せるのだろうか。
ゴールが見えないマラソンほど疲弊するものは無い。
自分があとどれだけ走ればいいのかわからないなんて、心が折れてしまっても無理は無い。
人生に意味があるのか、というのは人類が抱き続けてきた課題だ。
だが、私はこう考える。
今生きている私達の存在こそが、先人達の生きた意味なのだと。
私達にバトンを渡してくれた先人達のおかげで、私達は今を生きている。
たとえこの先終わりが訪れるのだとしても、先人達の生きた証である私達が、今ここにいる。
そして、この先にも私がバトンを渡す子孫が、未来を生きて、私達の生きた証となってくれる。
少なくとも私達が存在することに意味はある。
私達一人一人が、先人達の墓標なのだから。
「素足のままで」
毎年訪れる海。
新調したビーチサンダルを履いて来たのに、砂浜まで来ると脱ぎ捨てたくなる衝動に駆られてしまう。
プールと違って海は着替えがめんどくさい。水着の中に砂が入るし、体もベタベタになる。
だが、このワクワクは止められない。否、止めてはいけないのかもしれない。
このワクワクが我々人類を、この地位まで連れてきたのだから。
満を持してビーチサンダルを脱ぎ捨て、浜辺に舞い降りる。
が、一粒一粒が熱された鉄のような砂に飛び上がってしまう。
辛うじて辿り着いた波打ち際では、足裏に小さな虫がまとわりつく感覚に寒気を覚える。
結局すぐにビーチサンダルに舞戻るのが、私の毎年のルーティーンだ。
「もう一歩だけ」
もしあの時、俺が勇気を持てていたら、この関係も変わってたのかな。
野球部の新入生歓迎会に来てくれたお前を見た俺は、一瞬で恋をに落ちてしまった。
肩で切り揃えた艶々の髪に、プルプルした唇。
何度も想いを伝えようとした。でも無理だった。
お前との関係性が変わるのを恐れたんだ。
この関係を進めたいと思う反面、今の関係も心地良いものだったから。
今でもお前の事を思い出して、自分の弱さに打ちひしがれるけど、俺は忘れないよ。
お前と挑んだあの夏を、離れれていても俺達は最高のバッテリーだ。