「祈りの果て」
人は祈る。
時には願いを託して祈り、またある時は祈ること自体が習慣になっているから祈る事もある。
願いを叶えて欲しいから行う祈りはともかく、宗教的な祈りに終わりは無い。
何かを目的としているのではなく、その行い自体が信仰に繋がっているからだ。
己の信じるもののために祈る事が自分という存在を確立させるアイデンティティになっていると言っても過言では無いだろう。
仮に終わりがあるとすれば、それは終末が訪れた時だろうか。
もしかすれば、再現の無い祈りに終止符を打つため、ほとんどの宗教の物語には、終末に行き着くのかもしれない。
「パラレルワールド」
今日の夕飯をカレーにするか、シチューにするか。
右に行くか左に行くか。
そんな日常生活で選択を迫られる時に毎回考える。今この瞬間の選択の数だけパラレルワールドが存在しているのかと。
もし今日シチューにしていたらどうなっていたのか。右にも左にも行かず、ずっと立ち止まっていたらどうなっていたのか。
考えても意味が無いのはわかる。
答えは『わからない』。
もしかしたら選ばなかった方のパラレルワールドでは、私の選択が遠因で第三次世界大戦が発生しているかもしれない。
こんなものどうとでも妄想できる。
答えのない問題に囚われてもなんの意味もない。
それでもついついパラレルワールドの可能性を考えてしまうのは何故なのだろうか。
「靴紐」
マジックテープの靴を卒業したのは何歳の時だったかな。
小学生高学年になった頃にお母さんが言った。
「そろそろ靴紐の上履き買う?」
難しそうだったけど、練習してみるとすぐに結べるようになった。
周りも続々とマジックテープから靴紐に移行していって、子供ながらに自分達の成長を感じた瞬間だった。
「答えは、まだ」
全力でやろうと思った色んなものを後回しにしてきた。
テスト勉強、部活の自主練、受験勉強、ゲームのランキング、動画投稿、部屋の掃除、YouTubeで見かけた料理のレシピ。
一度は全力でやろうと思い立った事なのに、実際に他の事が手につかなくなるくらい没入した事は無い。
後回しにしていると言っても、今後取り組む予定が明確にある訳でも無い。
いつになったら全力でやるのか。
その答えは、まだわからない。
「仲間になれなくて」
ずっと友達が欲しかった。
羨ましかった。友達といる人達が。
僕はいつも一人だったのに。
わからない。何が悪かったのか。
気づいた時には僕は一人だった。
僕の周りには誰もいなかった。
みんな僕を無視した。まるで僕の周囲だけぽっかり空いた虚無が存在してみるみたいに。
証明したかった。
僕の存在を。僕の価値を。
だからいつもより暴れ回って、僕の存在をアピールした。何故かみんなが大人しくなる授業中にも僕は皆に声をかけて、練習したダンスを披露した。
せっかく僕が勇気を出したのに、誰も反応しなかった。腹が立ったので、目の前にいた奴を殴った。
腹が立ったんだから当然だ。だってお父さんはよく僕を殴るんだもん。
結局誰も僕を仲間に入れてくれなかった。
お母さんもそうだったんだって。おかしいね、お母さんはいつもお家では大声を出して存在をアピールしてるのに。