朝起きたら妻が用意してくれた朝食を食べて会社に向かう。その際に行ってきますという声かけと、今日は何時頃に帰るからという予定を告げることを忘れない。
昼はこれまた妻が朝早くに起きて作ってくれた愛妻弁当に舌鼓を打ちながら、俺の好きな卵焼きと唐揚げを入れてくれたことにしみじみと感謝する。
夜は仕事が終わったらなるべく早く帰宅をして、夕飯の準備を妻がしてくれている代わりに、子供たちの面倒をみる。そうして出来上がったご飯を家族みんなで囲みながら、ママの作る料理はいつだって美味しいねと、子供たちと一緒に笑い合う──。
──ああ、あの日にそんな行動ができていたら、今のこの状況はなかったのだろうか。
朝は挨拶もしないで家を出て、急な飲み会が入ったことをうっかり連絡し忘れて帰宅し、妻に空のお弁当箱を渡しながら、今日の卵焼きはいまいちだったねと、余計なことさえ言わなければ、俺はこんなにも家庭で孤立せずに済んだはずなのに。
もしもタイムマシンがあったなら、あの日の自分を殴りたい。
けれどそんなことはできないので、もう何日も口を聞いてくれない妻へ、今日こそはきちんと謝る機会を貰おうと、秘かに会社近くのケーキ屋に寄る。
妻の好きなチーズケーキを家族分頼み、祈るような気持ちで帰路に着いた。
【もしもタイムマシンがあったなら】
Question:今一番欲しいものは?
「現金」
「いや、情緒なさすぎだろ!?」
【今一番欲しいもの】
私が私として生まれたときに、一番最初にもらうもの。
名付けられたその日から、私は私になった。
私はやっと私と私以外のものを認識し、私は世界に唯一な存在であると自覚し、そして私以外の名前たちもこの世界にふたつとない唯一な存在なんだと気付く。
私は遠くの景色に思いを馳せながら、生まれたこの世界の尊さを噛みしめた。
【私の名前】
あ──。転んだ。
大丈夫かな。
心配でしばらく眺めていると、絨毯の上に伏せていた小さな身体が、たどたどしく立ち上がった。
良かった。泣いてない。
むしろ、ちょっと笑顔だ。
再び前へ前へと足を動かして、拙い歩きでこちらへとやって来る。
私は今すぐ駆け寄りたい衝動をぐっと我慢した。
私の視線の先で、我が子が真っ直ぐにこちらをじっと見つめている──、ような気がする。
その丸い瞳には何が映っているのかしら。
あなたの視線の先にママが入っていればいいな、なんて、そんな願望を抱きながら、大きく両手を広げたまま、小さな我が子の到着を待っている。
【視線の先には】
私だけのものが欲しかった。
私だけの特別で、私だけを必要とするそんな都合のいいものが。
「そんなもの、この世界のどこにもないのにね・・・・・・」
ベッドに横たわったまま部屋の天井を眺めていた私は、ぽつりと呟く。
「わたしでは・・・・・・、貴女様の特別にはなれませんでしたか?」
傍らからそんな寂しそうな声が聞こえるも、私はそちらのほうを振り向いてやらない。
「ええ、そうよ。お前ではダメだったわ。だってお前は優し過ぎるもの──」
誰にでも分け隔てなく優しいから、お前を私だけのものになんてできないわ、という言葉は辛うじて飲み込んだ。代わりに片手を掲げるように差し出すと、震える温もりがその手を包み込む。
「でも・・・・・・、貴女様はわたしだけの、特別でした」
誰も代わりになんてなれません。そう言った傍らの彼を私はとうとう振り返り、「そう」とだけ告げて控えめに微笑んでから、ゆっくりと目を閉じた。
私だけのものは手に入らなかったけれど、私自身が誰かの特別になれたのなら、この人生も案外悪くなかったわね、と、最期にそんなことを思いながら。
【私だけ】