嘘吐きが得をして、正直者が馬鹿を見る。
そんな世の中にしてはいけない。
なんて、そんなことをどこかのお偉いさんが言ったとしても。
ふと思うのだ。
果たして正直は美徳だろうか。
正直過ぎて墓穴を掘った愚か者を、たびたび目にすることもある。
結局はどんな時代も、嘘吐きだろうが、正直者だろうが、馬鹿な奴が馬鹿なのは変わらない。本音も建前も利口に使いこなすことが、上手く世の中を回すには必要なんじゃないだろうか。
──と言うのが、自分の正直な感想である。
【正直】
天気予報で梅雨入りが宣言される。ここから頭はフル回転だ。週間天気予報とにらめっこしながら、まるで雨の日の隙間を縫うようにしてときおり現れる晴れマークをチェックする。
明日から五日間ほど雨が続くならば、今朝はできるだけ早起きして、大量の洗濯物を端から並べるようにして、干す。干す。干す。我が家に乾燥機などという高価なものはない。このささやかな恵みのような太陽光を目一杯に活用するのみである。
え? コインランドリーがあるだろうって?
残念ながら我が家があるのはどこぞの片田舎。すぐそこら辺にそんな便利なものが建っているわけではないし、わざわざ車を走らせて遠くのコインランドリーまで向かうのも、ぶっちゃけ面倒である。
はぁー、まったく。
梅雨なんて、何がいいんだろう。
そんなふうに溜息をこぼしながら、洗濯物を洗濯ばさみに留めていく。
ふと見上げれば遠くの空に、薄ぼんやりとした小さな虹がかかっていた。
おっ、綺麗だなぁ。
思わずポケットに入れてあったスマホを構えた。
【梅雨】
まず、会話の始まりは挨拶から。
初めまして、おはようございます、こんにちは、こんばんは。
親しみのこもった爽やかな笑顔を添えてそう告げた後、ごく自然な流れで天気の話へと移行する。
今日はいいお天気ですね、昼から暑くなるそうですよ、昨日の夕方に突然降り出した雨にはさすがに参りました、など。そんなふうに続けておけば、大抵の相手ならすぐに和やかな様子で話題に乗ってくれる。僕は今までこのやり方で様々な人との仲を培ってきた。より良い仕事はより良い人脈作りから。
つまり会話のきっかけを掴むのに、誰に対しても無難な天気の話は、とても便利なトピックなのである。
・・・・・・と、今までの僕はそう思っていた。
だが、しかし。
時に例外というものは存在する。
「お前は無能か、有能か、俺が知りたいのはその一点のみだ!」
ソファーの上でふんぞり返るその男は、僕とは今日が初対面であるにも関わらず、不躾にもこちらに向かって思いっきり指をさしてきた。
「社交辞令の挨拶も、相手との距離をはかるための無難な会話も、俺には不要だ。そんなものは時間の無駄に他ならない」
高らかにそう宣言した男は、長い足を優雅に組む。テーブルを挟んだ向かいのソファーに座る僕を、まるで値踏みするような視線で眺め遣った。
なるほど。稚拙な繕いなど最初から求めていないということか。ならばこちらも回りくどいことはやめて、本音で話し始めるとしよう。
だって、僕も本当は──。
【天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、】
──ただ、ひとつ。
「僕は有能ですよ。僕と一緒に仕事をしたいなら気を付けてください。下手なことをすれば、あなたがいま座っているその椅子が、次に僕が座る椅子になるかもしれませんからね」
澱みのない僕の答えに、向かいに座る男が些か面を食らったように目を丸くする。しかし次の瞬間には、何とも楽しげな不敵な笑みを、その口元に湛えていた。
──あんなに若くして可哀想に。
──運が悪かったのねぇ。
一カ月くらい前のことだ。
この道路で轢き逃げ事件が起きたのは。
被害者は仕事から帰宅途中だった三十代の女性会社員。
道端に倒れ早朝になるまで放置されていた女性は、発見した頃にはすでに心肺停止状態であった。
(もしかしたら『これ』は、そういう類いのものなのかもしれない・・・・・・)
頭の中でそんな思考にいたるも、深く考えている余裕はなかった。
息も絶え絶えながら、必死に足を動かす。追い付かれたらと思うと、それだけで血の気が引いて寒気がした。
(・・・・・・お願いだから、こっちに来ないで)
普段から使い慣れていたはずの道が、いつからか不気味な雰囲気を漂わせるようになったような気はしていた。きっと一カ月前に起きた、あの事件がきっかけだったのだろう。
どうしてもっと早くに、この場から立ち去らなかったのか。
けれど、にわかには信じ難かったのだ。半信半疑のまま今日までこの道を、変わらずに歩き続けてしまった。しかも事件と同じ、こんな夜更けに。
だから、目を付けられてしまったのか。
心霊現象からは無縁の人生を歩んでいたはずの自分が、どうしてこんなことに──。
私はただ逃げるしかない。
この不快なほどに降り注ぐ、悍ましい感覚から。
ひゅうっと、後ろからものすごい速さで、何かが顔のすぐ真横を通り過ぎた。あまりにも至近距離ですり抜けていったその何かに驚いて、思わず駆けていた足を止めてしまう。
(・・・・・・これは、・・・・・・刀?)
私の行く手を阻むかのように前方のコンクリートの地面には、見るからに立派な日本刀が突き刺さっていた。固い地面にどうしてこんな日本刀が深々と突き刺さることができるのかという疑問が過るも、それよりももっと重大なことに気付き、驚愕で膝が震え上がる。
(・・・・・・っ!! 動けない!)
まるで地面に足が縫い止められてしまったかのように、これ以上一歩も前へ行くことができない。私はその事実に悲鳴を上げるも、緊張で上手く声が出ないのか、周囲へ助けを呼べるほど自分の声が響かない。
ざっ、ざっ、ざっ、と背後から近づいてくる足音に、私は為す術もなく振り返る。
「ああ、よかった、追い付いた」
夜闇で影になっている場所から、落ち着いた声音が放たれる。
「これ以上離されたら、どうしようかと思ったよ」
影から現れ出てきたのは、柔和な顔つきの年若い青年だった。青年は穏やかに微笑むと、こちらに歩を進めながらゆっくりと手を伸ばす。
「君を迎えに来たよ。残念ながら君のいられる場所は、もうこの世のどこにもないんだ」
だから、在るべき場所に僕が案内するよ。
青年のその言葉に、私は力が抜けたようにその場へと座り込んだ。
ああ、そうか、と、腑に落ちて、私はやっと一カ月前に自分の身に起きた、事の顛末を思い出す。
私はあの日、車に轢かれて死んだのだ。死んだ私に追い打ちを掛けるように、ここを通る見知らぬ人達から、望まぬ哀れみの言葉の数々が吐き出されるものだから、私はずっと逃げていたのだ。逃げても変わらないのに。私はもうここの他にはどこにも行けなかったのだから。
けれど、青年がここも私の居場所ではないのだと教えてくれたおかげで、私はようやく心の底から安堵し、自分でも知らぬうちにたえていた涙を、思いっきり流すことができたのだった。
【ただ、必死に走る私。何かから逃げるように。】
赤い雫が視界に入る。飛び散った生温い感触が、僕の頬に付着した。こちらに覆い被さるような姿勢で膝をついた彼は、高く屈強だった体躯を今にも踞りそうなほどに折り曲げて、荒い息を吐き出している。目を見開いたままそんな様子の彼を見つめた僕は、気付いたらその手を伸ばしていた。僕は傾く彼の身体をそっと抱き締め、その背中に腕を回す。ぬるりとした血液が手のひらに触れ、彼から溢れ出る夥しい量の鮮血は、もうどうすることもできないことを僕に悟らせる。
「・・・・・・お怪我は、ありません・・・・・・か?」
消え入るような声が、普段と変わらぬ穏やかな調子でたずねてくる。僕が微かに頷くと、彼は「・・・・・・良かった」と、心底安堵したように息をついた。
彼の吐息と共に、何台もの車が僕の後ろに到着したのが分かる。車からバタバタとした足音が下りてきたのが聞こえ、すぐさま僕と彼の周りを囲むようにして大人数の人だかりができた。
「ご無事ですかっ!?」
人だかりの一人が大声を上げた。僕を守るように躊躇いなく銃弾の前に背を向けた彼の、今にも事切れそうな様子を目にして、すぐさま声を上げた人物はこれまでの事態を把握したようだった。
「早くこちらへ!」
銃弾の雨は止んでいた。駆け付けてきたこちらの援軍に、敵対勢力もすでに逃げ去った後らしい。
僕は傾いできた彼の頭の後ろへ手を置いた。ぽんぽんと労るように軽く撫で、もう身体を保っていることもできないらしい彼の耳元へ、そっと言葉を溢す。
「お疲れさま。君が居てくれて助かった」
今までありがとう。そう言ったのが最後まで届いたのかは分からないが、項垂れたまま動かなくなった彼の陰から抜け出し、僕はこちらへやって来た幾人かの人に支えられるようにして車へと乗り込んだ。
僕が乗車したのを確認すると、運転手はすぐさまハンドルをきる。先程までいた場所が遠離っていくのを、後部座席に背中を預けながらバックミラー越しに眺め遣る。その中に血だらけになった彼の姿が映り込んだ。
僕は最後に掛けられなかった言葉を秘かに飲み込んで、視線を窓の外の過ぎ去る風景へと向けた。
【「ごめんね」】