地上には自分の居場所など、どこにもないような気がした。誰かと誰かが笑っている顔も、誰かと誰かが楽しそうに喋っている様子も、何もかもが羨ましくて嫌だった。
静かな場所で一人きりなりたくて、深い海の底まで落ちてみることにした。光も届かず音もない深海は、きっと孤独を求めようとする僕みたいな奴には性に合っているんじゃないかと思ったのだ。
そうして沈んでみたら、予想は裏切られた。
深海は怖いくらいに広く安らかさに包まれているように見えて、実際はとても冷たく苛酷な世界であったのだと知る。
どうやら僕の背に背負うには、海の底の水はひどく重すぎたらしい。
【海の底】
君に会いたくてたまらない。
今すぐ君の元まで駆け出して、君をこの腕で思いっきり抱き締めたいのに、私の元には絶対に来ないでと君は言う。
仕方がないので僕はゆっくりと目を瞑り手を合わす。
私の分まで目いっぱい幸せになって、目いっぱい楽しんで、目いっぱい生きて生きて生きて生きてから、そうしたら会いに来ていいわよと、遠くの空で笑う君の顔が目蓋に浮かんだ。
【君に会いたくて】
亡くなった祖母の家を掃除していたら、古びた引き出しの中から一冊の日記帳が出てきた。開いてみようと思ったら、日記帳には小さな錠がついている。けれど、肝心の鍵はどこにも見当たらない。
たぶん鍵は無くしたんじゃないかしら。母さん、前にそんなこと言ってたし。一緒に掃除を手伝っていた母親がそう呟いた。
なんだ、どうしたと、二階を整理していた父親と伯父がやって来る。祖母の日記帳を確認した途端、おふくろこんなのつけてたんだなぁと、伯父が感慨深そうに息を吐いた。
祖母は自分からはあまり話をしない穏やかな人だったけれど、そんな人が記していた日記には一体どんなことが書いてあるんだろう。日記の中だけでは実はすごいお喋りとかだったら、ちょっと楽しい。
ねぇ、みんなして何やってるの? と後ろから声がした。庭で遊んでいた伯父の娘とその相手をしていた弟が、いつの間にか部屋の入口前に、不思議そうに首を傾げて立っている。
ほら、これと、私が二人の子供達にも見えるように掲げれば、何それ、何それと、興味津々な様子で近付いてくる。
黙したままの日記帳を皆で囲む。祖母がどんな心情を隠していたのかは未だ謎のままだが、それでもその日記帳は今だけはきっと微笑んでいるんじゃないかなと思う。
【閉ざされた日記】
放課後の帰り道。
吹いた木枯らしの冷たさに、寒いのは苦手だと、君は肩を縮こませながら僕の隣を歩く。
厚手のマフラーで首元を覆い被せているくせに、制服のスカートは膝上までの長さしかないのはいかがなものだろう。
そう指摘すれば、お前は彼女のスカートから覗く生足に、一度でもときめいたことがないんだなと凄まれた。
ごめんなさい。
素直にそう謝れば君はニヤリと悪巧みを考えた子供みたいに歯を見せ、お詫びにそのポケットを貸しなさいと、強引に僕のコートのポケットへ自分の手を突っ込んでくる。
仕方がないので僕も一緒に手を突っ込んで、僕よりも少し小さい君の手を握り返した。
そうしたら再び吹いた冷たい木枯らしが、僕らの肌を突き刺していったので、僕と君は肩を寄せ合いながら、ほぼ同時に寒いともうすぐ来る冬へと訴えたのだった。
【木枯らし】
「鏡よ鏡。この世で一番美しい者は誰?」
『それは貴方様です』
「・・・・・・もう、嘘つきね。私なんかが美しい訳ないじゃない」
『いいえ、嘘ではありません』
「私なんてどこを見ても醜いわ。目は細いし、鼻はぺちゃんこだし、口だって大きすぎる」
『本当の美しさとは目には見えないものですよ』
「でも、だったらお前にだって見えないじゃない。お前は外見しか映さない鏡だもの」
『いいえ、姫君。私は魔法の鏡ですから』
「それが何だというの? お前は私の問いに答えるか、喋ることくらいしかできないでしょ」
『いいですか、姫君。この世にある美しさに明確な定義はつけられませんが、美しいという概念は一人では成立しないものなのですよ』
「そうかしら? 美しいものはそこに在るだけで美しいのではなくて?」
『美しいとは他者の心が伴っていなければなりません。感受する誰かの存在がなければ、それはまったく醜いただの独り善がりとなるでしょう』
「・・・・・・お前の話は少し難しいわ。私にはやっぱりよくわからない」
『では姫君、どうか私を信じてください。毎日貴方様をこの身に映す私が、貴方様の全てを映し通す私が、貴方様を心から美しいと思っていることを』
「でも私はそう簡単にお前の心とやらを信じられないわ。自分を信じるのも自分じゃない誰かを信じるのも、私にとってはとても難しいことなのよ・・・・・・」
『だから私が毎日魔法を掛けましょう。貴方様はただ毎日私へ問い掛けてくださればいいのです』
「鏡よ鏡。この世で一番美しい者は誰・・・・・・って?」
『ええ。そうしていつの日か必ずきっと──。私も貴方様も信じて止まない美しい人が、すぐ目の前に現れるはずですから』
【美しい】