『あたたかいね』
何だろう。彼がさっきからこちらを伺っている。待ち合わせからまだ数分、思い当たる節も無い。話したことと言えば私がいつもの手袋をしていないのをどうしてか聞かれたくらい。玄関を出て直ぐ濡れた道に落としたから洗濯に出して…
あ、そうか。今日は寒いから素手でいるのが気になるのかな。多分、そう。だって本当に手の感覚が無いくらい手先が冷たいんだもの。
ん?さっきも言ったけど、出掛けに手袋を落として洗濯に出したからだよ。そりゃあ冷たいけど…無いものは仕方ない今日は我慢する。
だ、か、ら、何度も言うけど手袋は洗濯に出して今日は無いの。ねぇ、私の話、ちゃんと聞いてる!?
何度も同じことを聞かれ、少しムッとしながらそう言うと、彼の左手がスッとこっちに伸びて来た。見上げると彼は何故か目を合わせてくれない。
…あ、そう言うことか。
出された手をそっと握る。彼が今日は手袋が無くて寒いだろうって、その手を自分のポケットに入れてくれた。
うん、繋いだ手がとってもあたたかいね。
どうもありがとう。
『Ring Ring…』
「ねえ徹叔父さん、昔は携帯が無かったでしょう?家の電話だけって不便だよね」
甥っ子が突然そう言ってきた。
確かに。でも、昔はそれが当たり前だったんだ。
まあ、聞けよ甥っ子。電話にまつわる叔父さんの話しを。
高校の同級生だった優子と駅で偶然会ったのは大学2年生の冬。近況報告の名目で何回か会う内に自然と付き合う流れになった。3回目のデートで、彼女の不用意な言葉から喧嘩になり雰囲気は最悪に。帰り際、彼女が「今日はごめん…。後で私から電話する。」
私から電話する。確かに彼女はそう言った。が、結局電話は来なかった。
甥っ子に、どうしてだと思う?と聞くと「え〜、そんなのわかんない〜」
だよな。自分も分からなかったもの。
事実を知ったのは随分経って、やっと出席出来た同窓会だった。
「徹、久しぶり」優子が声をかけてきた。
ああ…と曖昧な返事をすると、彼女があれからの話しをし始めた。
本当に何度も家に電話を掛けてくれたのだと言う。ある日やっと繋がった電話に若い女性が出たらしい。
「徹さんいらっしゃいますか?って言ったら、突然『そんな人いません!』って怒り口調で言われてね。驚いて電話を切ってしまって。
でもいつ帰って来るのかちゃんと聞かなきゃって、もう一度電話を掛けたの。
そうしたら『だからそんな人居ないって言ってんでしょ!!』って大声で怒鳴られて怖くて怖くてそれっきり…」
甥っ子が言う。「ねぇ、ちょっと待って。その女性ってもしかして僕のお母さん…?」
正解。昔から面倒見のいい姉貴は、可愛い弟に悪い虫でも付かないように思ったんだろう。
だから、あの時にもし携帯電話があったら、今頃彼女とどうなってたかなって思うんだ。
『冬晴れ』
暫く続いた大荒れの天気にうってかわって穏やかな今日、束の間の冬晴れに車を出して向かった先はコインランドリー。
皆考えることは同じらしく、早い時間にもかかわらず乾燥機はほぼフル稼働だった。私はかろうじて空いていた一台に洗濯物を放り込んだ。
「あの…」
後ろからの声に振り返るとおばあさんが立っている。
「止まっている機械があるんだけどねぇ」
乾燥が済んだドラムから勝手に洗濯物を取り出すのにためらいを感じるのか、もしくは他人の洗濯物には触りたくないのか。困っている様子にお手伝いしますと代わりに洗濯物を引っ張り出すとおばあさんはお礼を言って自分の洗濯物を中に入れた。
「あの…」
今度は横から別のおばあさんに声を掛けられた。
「空いた機械を見付けたので慌ててしまって」
先にお金を入れた乾燥機が空のままグルグルと回っている。動いていても開けられますよと扉を開けると、おばあさんはお礼を言って自分の洗濯物を中に入れた。
さあ、今の内に買い物をしよう。乾燥時間は後20分。
出入り口に向かう私に「あの…」と、何処からか3度目の声がかかった。
『日の出』
就職を機に一人暮らしを始めた。採用時にどの支店になるか分からないと言われたが、結局配属先は実家から一番遠い場所になった。
知らない土地にポンとやって来たので右も左も全く分からない。取り敢えず今日はアパート周りを散策して色々と情報収集しようと私は自転車を漕ぎ出した。まずはコンビニとスーパー、次は最寄りの駅と病院をチェックして、後は。
アパートから自転車で15分のところにお目当ての店を見付けた。
『日の出美容室』
古風な名前だが白い壁に赤い屋根の可愛いらしい店構えだ。窓からそっと中を覗き見ていると突然扉が開いた。
「良かったらどうぞ、中に入って?」
店主らしき女性が笑顔で手招きをしている。私はその言葉に誘われるがまま店に入り椅子に座った。
「コーヒーでいいかしら?」
窓から覗く私の不安そうな顔が気になったと言う。私の話しに店主は「焦ること無いからね。ゆっくりとこの街に慣れていったらいい」
店主の優しさに触れ、私はこれからここで頑張っていけそうな気がした。
『新年』
年が開け、今日はお父さんお母さんと一緒にお寺さんへ新年のご挨拶にやって来た。他の檀家さんが数人、向こうでお参りをしているのが見える。挨拶を終えて本堂へ行くと、お参りを終えた檀家さん達と廊下ですれ違った。
ガランと広い本堂にたった3人。誰も居なくなったね…と小声で喋りながら家の位牌が置いてある一番近くのロウソクに火を灯し線香をあげる。
『おじいちゃん、新しい年になりました。
今年も皆無事に過ごせるように見守ってください』
そう心で唱えると、風も無いのに目の前の炎がユラユラと揺らめいた。
『あ、おじいちゃんだ』
お父さんとお母さんは気付かない。けど私には分かる、おじいちゃんが合図を送ってくれたこと。
向こうでお父さんがそろそろ帰るよと呼んでいる。
じゃあおじいちゃん、もう行くねと囁くと、それに応えるようにロウソクは一瞬ボワッと炎を大きくすると、その後静かに消えていった。