『イブの夜』
病院の会計を済ませ二人で玄関へ向かう。売店の脇に差し掛かった時、母が一瞬足を止めた。どうしたの?と聞くと慌ててこちらに顔を向け「何でもないよ」と歩き出した。
チラッと、売店に目をやる。
棚の下段に手作りらしき雑貨が並び、中でも赤いポーチに目に留まった。母好みの色と形、母が見ていたのはきっとこれ。
母は昔から「まだ使える」と私物を買うことがほとんど無かった。病気になってからは尚更「私は通院や入院にお金が掛かるのだから」と益々物を買わなくなっていった。
袖口や膝が擦り切れた服を見かねて、新しい物を買ってこようかと声を掛けるも母はいつもそれを頑なに拒んだ。
でも、さっきポーチ見てたじゃない…。
母は本当は我慢している。だからポーチを買って渡してもいいがきっとそれでは母の中の何かが許さない気がする。
…そうだ!
私は忘れ物をしたと言って母を車に残すと急いで売店に戻り赤いポーチを買った。
これはサンタさんからの贈り物。それだったら母も素直に受け取ってくれるのではないだろうか。
イブの夜、今夜私はサンタになる。
『ゆずの香り』
競馬に全く興味の無い妻が、突然自分も馬券を買いたいと言い出した。急にどうしたのかと尋ねると、昨日良い夢を見たと言う。「今日の午後に有馬馬記念(ありばばきねん)があるでしょう?そのレースで白い馬が一着だったのよ」
今回16頭立ての有馬馬記念、白い馬はユズノカオリだけだ。データを見る限り15番人気でとても来そうにない。そう伝えると「ううん!ユズちゃんは絶対に来る!」いやいやそれはほぼ無いから…と妻に言いつつ、でも待てよ…?と考える。
不思議な話しだが昔から妻の言葉通りになることが度々あった。行くなの先が行き止まりだったり、買うなで待つともっと安く買えたり。だとしたら。もしかしたら。
ユズノカオリが本当に一着だったりして…。
「あ〜ユズちゃんダメだったかー!」
妻が叫んでいる。「掛金は100円だったからまあいっか。…ってあなたもダメだった顔してるわね。今日は一体いくら掛けたの?」
「ん…?1万円」嘘。本当は2万円。こっそりユズノカオリに賭けてたこと、妻には内緒にしていよう。
『ベルの音』
ここは個人の整形外科クリニックの待合室。中で流れるのはハンドベルが奏でる楽しげなクリスマスソングだ。順番を待つ私には何となく場違いな曲な気がして落ち着かなかった。痛めた右腕はまだ辛く、体に固定されているので自由が利かない。一体いつになったら治るのだろう…。そんな苛立ちからか明るい曲が妙に耳障りだった。
俯いて暫く目を閉じる。
ところが左側に何かの気配を感じて目を開けると、小さな女の子が受け付けで貰ったであろうクリスマスシールを私のコートに貼り付けていた。
驚く私に近くにいた若いママが慌てて「すみません!」と謝った。でも女の子は「だってお姉ちゃんはクリスマスツリーなんだもん。だからゆいが綺麗に飾ったの」
クリスマスツリー……?
固定した腕が袖に通せず、肩に羽織ったコートは少し長めの深緑色。被るニット帽はレモンイエローのボンボン付き。こげ茶のロングブーツを履いて座る私の姿が女の子にはまるでクリスマスツリーに見えたらしい。
綺麗なシールをどうもありがとうと言うと女の子は恥ずかしそうに頷いた。
『寂しさ』
寂しさを感じた時ですか…そうですね…
忙しい両親に代わって私の面倒を見てくれた祖母は何でも出来るひとでしてね。そんな祖母の側で過ごす時間は本当に楽しかったのを覚えています。
その大好きな祖母が亡くなったのは私が高校2年生の春。身内の死を経験したのはそれが初めてだったのでそれはもう寂しくて寂しくて、暫くの間は沈んだ気持ちで過ごしておりました。茶の間で祖母が使っていた座布団を見るだけで涙が出る。切ない気持ちを抱えたまま過ぎる日々。
そんな生活も数ヶ月経ち、冬になる頃ようやく落ち着きを取り戻していきました。そしてふと思ったんです。
ああ、今年の冬は祖母の甘酒が飲めないんだなって。
いいえ、今年ばかりか来年も再来年もそのまた先も、もう二度と祖母の作る甘酒は飲めないのだと。
ひとが居なくなるとはこう言うことなのかと悟った時、私にまた新たな寂しさが込み上げてきたんです。
『雪を待つ』
空に掛かる厚い雲を見上げながら息を吸い込むと、冷たい空気が鼻の奥に突き刺さる。これは…もしかして。
私は愛用の一眼レフをバッグに詰めると、車で山へ向かった。趣味で撮った写真をコンテストに応募し始めたのが丁度1年前。今回たまたま目にしたのは市の募集だった。「あなたの好きな場所」と題して市の魅力をアピールするもの、との募集要項を見てある場所を思い出した。
家からほど近い鬱蒼とした山の中腹に一カ所だけ木々がぽっかりと空いた場所がある。下を覗くと連なる山々と、運が良ければ川に架かる鉄橋を渡る電車が見え、更に遠くには薄っすらと海と島も見える。
あるのは大自然だけ。でもそれがいい。後はここに…。そう思っていると待っていた雪が舞いはじめた。そろそろ電車の通過時刻だ。私はカメラを構えてじっと待った。
雪の白に電車の赤が映えると評された私の写真は、市の観光PR大使賞に選ばれ来年2月の市報の表紙を飾る。